It's My Own Tears That's Being Wasted

Johnny Copeland


2004-09-14 TUE.


ちょうど Little Milton の例の Waitin' For みたいなソウル色の強い雰囲気がありますが、さすがに Little Milton ほどはヴォーカルが滑らかではないのですが、そこらむしろ迸るエモーションが洩れ出てきちゃった感じで、やや感情過多(?)っちゅう部分もあるかもしんないけど、タマにはこんなウェットかつヘヴィ、それでいて不思議と、豊かな「彩り」に溢れているような、そう、シェフがコンシンの力を込めて取り組んだ超豪華なデザートみたいな「これでもか感(?)」があるナンバーもいいものです。バックのギターは自身によるものですが、他のバックは一切、不明でございます。
1968 年の録音ですが、この曲は後に Rounder の Texas Twister でも再度、採り上げています。

彼のギターは、「テキサス系」などと分類されているようですが、少なくとも、この 1968 年録音で聴くかぎり、テキサスとは言っても、我らが Albert Collins や Clarence "Gatemouth" Brown、はたまた Johnny "Guitar" Watson といった感じじゃなく、むしろそれ以前の T-Bone Walker っぽいよな気がしますねえ。

Alligator での Albert Collins との共演、Black Cat Bone などを聴くと(ま、相手が Collins じゃダレだって、それ以上に「光る」のはムリっちゅうもんでしょ)、ギターは Collins、ヴォーカルは Copeland っちゅう分業(?)で行く最初のコーラスが、なかなか「いい」出来なんですが、Copeland のソロとなると、Collins っぽいカラーを狙いつつも、まだアンシャン・レジームの残り香がところどころに⋯
ま、逆に言えば、そんだけ Albert Collins のギターがイカレてる、ってことなんでしょうけど。

Johnny Copeland は 1937 年 3 月27日に Louisiana 州の Haynesville で生まれています。
この一帯は Texarkana と呼ばれる( Texas+Arkansas+Louisiana つーことねん)いわば 1930 年代まで、ブルースの揺籃ともなっていた地域でございます。
ただし、彼がまだ小さいうちに、小作農だった父が死んでおり、形見のギターが残されたそうですが、その父がブルースを歌っていたかどうかについて言及した資料は発見できませんでした。
また、彼自身がどのようにしてギターを覚えたのか、なども判明しておりません。
それでも、友人の Joe "Guitar" Hughes ( 1937 年 9 月29日 Texas 州 Houston 生まれ。叔母や継父がミュージシャンだったらしく、放送や 78 回転のレコードなどで音楽に親しむ。初期には様々な音楽を聴いていたようですが、母によってブルースだけは禁じられていたようです。聴いてるのが見つかるとケツ⋯うっぷす、シツレーいたしました、「お尻」をキツ~く叩かれたと。その彼が皿洗いの仕事を見つけ、その給料でギターを買ったことで、運命が決まったようなものかもしれません。
16才で初めてのバンドを Johnny Copeland と Pat Paterson、Steve Washington に Cornellius と作り the Dukes としてスタートしたのですが、Steve Washington と Cornellius が脱退。かわってドラムの Herbert Henderson とベースの James Johnson を加え the Dukes of Rhythm となります。このバンドは Houston や Galveston 周辺で活動しました。1958 年から 1965 年までに、Kangaroo や Golden Eagle、さらに Jetstream やら Boogaloo といったレーベルに録音もしています。1963 年からは Little Richard のバンド the Upsetters に参加。以後 Bobby Bland のバックに Wayne Bennett の抜けた穴を埋めるようにして参加しました。1966 年には Texas に戻り、学校の教師をしている彼の妻 Willie Mae の「落ちつかない暮しはイヤ」という言葉でツアーなども自粛し、Houston 周辺でやってたようですが、1985 年には Johnny Copeland に乞われてヨーロッパ・ツアーに同行し、以後 8 枚のアルバムをリリースしています。2003 年に死亡)
のバンドに加わったことで、ギターを Joe "Guitar" Hughes から教わったようで、このあたりから本格的にギターも弾くようになったのではないでしょうか。

ところで、そのバンド the Dukes of Rhythm で、ある日 Joe が具合が悪くてステージに立てないってことがあり、替わって Johnny Copeland がフロントを務めたんだそうです。そしたら、意外とデキが良く、ウケもいいので、それ以来、歌うことにも力を入れるようになりました。the Dukes of Rhythm は the Shady's Playhouse のハウス・バンドとなります。
なお、この時期、彼がボクシングに熱中してたので "Clyde"というニック・ネームを奉られたとのことですが、そこらワタクシはまったく詳しくないので、なんのこったかさっぱり⋯

当時 Copeland と Hughes は T-Bone に夢中だったようですねえ。実際、13 才にして、彼が生まれて初めて見たパフォーマンスだった、としてる資料もありますから、さぞやキョーレツな印象を受けたことでございましょう。
その 1950 年代はまた、彼が Albert Collins や Sonny Boy Williamson II、Big Mama Thornton に Freddie King などとも共演していた時代でもあります。

1958 年には地域的なヒットではありますが彼にとってはレコーディング歴のスタートとなった Mercury へのRock n' Roll Lilly が吹き込みされ、以後 1960 年代を通じて Houston の All Boy や Golden Eagle、そして今日採り上げた It's My Own Tears That's Being Wasted も含まれる New York の Wand や Atlantic に録音しています( Houston では Please Let Me Know やDown on Bending Knees などのローカル・ヒットもありました)。

1974 年( alt.1975)、彼は New York City に移っています。
New York はすべてが集まる街だった。音楽もね。
そして、そこには友人がいた。
来るんだったら力になるぜ、って言ってくれたのさ。

New York に移ったことで、彼はまた新しい「場」を獲得します。New York の Harlem やら Greenwich Village のクラブはもとより、Washington, D.C. や Philadelphia、New Jersey に Boston などに出演することが出来ました。
とは言っても、それで食べていけるほど、というワケじゃなく、彼は Brew 'n' Burger と呼ばれる類のレストランで仕事をしつつ、夜はブルース、という生活を送っていたようです。

1981 年に Rounder Records にサインしたことで彼の生活は大きく動き始めました。
そこでの第一作 COPELAND SPECIAL に始まる一連の作品はかなりな商業的成功をおさめた、と言って良いでしょう。
特に彼が 1982 年に西アフリカの 10ヶ国をまわったことで出来た、とされる 1984 年のアルバム、BRINGING IT ALL BACK HOME は「テキサス・ファンクとアフリカン・リズムを併せた」と評され、アフリカとアメリカをつなぐ「ユニークな」ブルース、と言えるのかもしれません。
この Rounder Records では他にも Make My Home Where I Hang My HatTexas TwisterWhen the Rain Starts a Fallin' Ain't Nothing But a PartyBoom Boom などのアルバムを残しています。

1986 年には Alligator による Showdown! で Albert Collins らと共演しています。ホントならこのアルバムは Albert Collins に Clarence "Gatemouth" Brown、そして Johnny Copeland、っちゅう顔ぶれで、the Best of Contemporary Texas-style Blues というコンセプトで製作されるハズだったのですが、(控えめに表現すれば) Gatemouth が諸条件で折り合いがつかず「ご辞退あそばされた」がために、やむなく代理を立てて録音されたのだ、とインタビュー( 1996 年)で語っています。
彼にとって Gatemouth はきわめて大きい存在だったようですから、共演できない、と判ったときには、かなり失望したのではないでしょうか。

Rounder Records との関係が終った後は Polygram のジャズやブルースのレーベルだった Verve と契約します。そこでリリースされたのが 1993 年の Flyin' High で、続いて Catch Up With The Blues を 1994年にリリースしました。
この Catch Up With The Blues では「念願」だった Clarence "Gatemouth" Brown との共演をはたしています。

しかし一方では、彼の健康には、不吉な影が忍びよっておりました。
1994 年後半に組まれたハードなスケジュールでのツアー中に、彼の心臓は突然変調をきたし、Colorado の病院に担ぎ込まれたのです。そこで彼は心臓の障害の存在を知らされ、そこから入退院を繰り返す闘病の生活が始まりました。
ただし、病院でも他の患者のためにブルースを演奏したりしてたみたいですが。
1995 年には、バッテリーや CPU によってオペレートされる左心室のアシスト装置を取りつけていましたが、1997 年 1 月 1 日に、ようやく臓器提供者が現れて、New York Columbia Presbyterian(長老教会派) Hospital で心臓移植手術が行われました。
その術後の快復は一時、順調に進み、なんと春にはツアーまでしています。しかし、僧帽弁の不調から夏には再入院することが必要になりました。

結局、合併症によって 1997 年 7 月 3 日、心臓移植手術の行われたその同じ New York Columbia Presbyterian Hospital で、帰らぬひととなったのです。

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