Paramount Records

Remarks


2004-09-25 SAT.


今日はまたいちんち外出してて PC に触れなかったんで、さすがに通常パターン(?)のブルース日記を書いてるヒマはなく、それじゃ、ってんで、先日「ひっそりと」アップしたものの、更新情報も出してないんで、たぶん誰にも気付かれていない Remarks の新しい記事、the Paramount Records を紹介かたがた、こっちに流用しちゃいます!

とは言っても、もともとはこれまでの BLUES 日記の中で「分散して」言及されていた Paramount Records についての記述をひとつに統合し、まとめたものですから、これまでの BLUES 日記をひとつ残さず完読し、その内容もすべて「そら」で言える、なんてお方には怒られるかもしれませんねえ。
ま、そんな「奇特な」お方はたぶんいないだろう、という期待(?)をもとに⋯では。

Paramount はもともと Wisconsin Chair Company つまり Wisconsin 州 Port Washington で椅子を作っていた家具製造会社なのですが、20世紀に入って早々、Edison Co. のために蓄音器のキャビネット*を手がけるようになって「レコード産業」と関わりを持つようになり、1915年の末には自らの手になる Phonograph「Vista」を製造販売する the United Phonograph Corporation をスタートさせています(ただし、この試みは成功した、とは言い難いようですが)。

* ─つまり、ハンドルでゼンマイを巻き上げて、78 回転のレコードに真鍮のパイプの先に付いたダイアフラムのピック・アップを乗せ、ダイアフラムの振動がメガホンの要領でラッパから音が出る蓄音機は、ヴィクターの犬が聴いてるのでご存知の方も多いと思いますが、あれは実はポータブル・タイプでして、リヴィング・ルームなどに置くものはラッパではなく、リッパな家具のようなキャビネット内部がいわばバック・ロード・ホーンのようになっており、美しいウォールナット仕上げなどで磨き上げられ、調度品としても鎮座していたのです。


1917 年( 1918 年としている資料もあります)にはさらに一歩踏み込んで、そのレコード盤も作り出すようになり、Fred Dennett Key に率いられたその部門を Paramount Records としたものです。

その録音とプレス作業は Wisconsin Chair Company が New York に作った子会社⋯と思わせて、実は Wisconsin 州 Port Washington の同社敷地内にあった The New York Recording Laboratories, Incorporated で行われていました。ただし、当初の製品のレヴェルはあまり高いものではなかったようで、使用されたシェラックのせいもあったのか、平均的なレヴェルを下回っていた、とする資料が存在しています。
そんな状態でしたから、なかなか採算がとれるようにはならず、やがて他社のためのプレス業務の下請けも行うようになりました。

Paramount にプレスを発注していたレーベルのひとつ、Black Swan Records は史上初の「黒人の、黒人による、黒人のための」レコードの供給を行った会社でした。
1921 年の 5 月に Harry Pace と W.C.Handy によって New York の Harlem で設立された the Pace Phonograph Corporation は、19 世紀のオペラ・スター、Elizabeth Taylor Greenfield の愛称「Black Swan」をいただいて 1923 年に改名しました。
このレーベルの最大の成功は Ethel Waters、Trixie Smith、そして Fletcher Henderson の録音だったようです。
ただ、この短命なレーベルは 1924年に Paramount に買収されてしまいました。そして、それによって、以後黒人音楽のジャンルは Paramount Records にとっても「利益の上がる」分野となっていったのです。

ところで Paramount はいわゆる「電気的吹き込み( Electrical recording )」への移行に遅れをとり、1926 年の秋にようやく Marsh Laboratories の手を借りてそれが可能になりました。しかし Chicago の East Jackson Avenue 64 番地の Lyon & Healy building の 7階にあった Marsh Laboratories 自体は 1927 年に経営シンジケートに身売りされており、それ以来あまりヤル気の感じられない Marsh Laboratories を Paramount Records は 1929 年に切って Gennett に鞍替えをしてしまいます。
この時期の Paramount は electric recording に移行した直後で、また 1924 年に買い取った Black Swan のおかげでブラック・ミュージックのカタログが充実し、有力なプロモーター Mayo Williams が次々と才能あるブルースマンを連れて来ていたころでもあります。ただし彼自身は Paramount に籍を持っていたわけではないようですが。

一方で Paramount のディストリビュートを担っていたのは、St. Louis の Artphone*でした。

* ─1916 年 9 月に Missouri 州 St. Louis で設立された Artphone は、当初、蓄音器の製造会社でしたが、後には Paramount を介して収集したブルースのレコードを扱うサプライヤーとなったものです。
およそ 1920 年代にあっては、その後半に黒人の顧客を対象としたレース・レコードが販売されるようになり、それに伴って「家庭でも」それを再生できる「蓄音器」が徐々に浸透し始め、1930 年代の中頃の市場調査では黒人の世帯、1,000 サンプルの結果で、実に 27.6% がそれを所有していました。
その調査では同時に Radio Set の保有率も調査されているのですが、まだ 17.4% に過ぎません。
しかし、現代においてオーディオ・ファイルのダウン・ロードが CD の売上を侵食しているのとまったく同様に、放送というメディアが「レコード市場」それも特に低所得者層の多いレース・レコード・マーケットでは「大いなる脅威」として台頭を始めています。
そのことに Artphone の副社長 Herb Schiele は 1928 年ころにすでに気付いていたようで、「確かに黒人の所得の低さを考えれば、Radio Set がそれほど急速に普及するとは考えられない。しかし、それもせいぜい 1~ 2 年で逆転することは大いにあり得ることだ」として市場の動向に注目し、1928 年度のラジオ・セットの販売総額が 650,000,000 ドルとなり、1920 年代初頭には「ラジオがレコード業界の脅威となることは無い」と判断していたレコード会社の経営陣も、「蓄音器」のみならず、ラジオ・セットの製造販売も手がけるようになり、さらに末端の販売店でもヴィクトローラなどの「蓄音器」よりもラジオ・セットに販売をシフトし始めて来たのを受けて 1929 年の 6 月、Artphone はレコードのサプライ事業から手を引くことを決定したのでした。
ただし、ラジオが即座にレース・レコードの市場を奪った、と決め付けるには多少の問題もあります。
当時の放送内容では、黒人音楽が On Air されることは稀であり、その意味ではレース・レコードを聴くことの「替わり」にはなっていなかったハズです。
しかし、ラジオの普及は黒人の聴く音楽の範囲をこれまでの「自分たちの音楽」中心から、白人たちの音楽にまで広げたことも確かで、そのことがブルースに与えた影響が、逆に「ある種の」共通言語を持つ結果となり、それによって白人にもブルースが存在を認められてゆく獲得資質のひとつとなっていったのかもしれません。


この Artphone の撤退が Paramount の「ハシゴを外した」、と捉えることも出来ます。いくら良いソースを持っていても、それを販売するチャンネルを失っては「事業」としては成立しません。
Artphone の通販の顧客リストを買い取ることにより、多少の流通は確保できましたがそれだけでこれまでと同様の規模を維持することは不可能です。さらに 1929 年10月29日、「 Black Tuesday 」と呼ばれた株式市場の大暴落に始まる「世界恐慌」の影響もあって、1932 年にはレース・レコードの大手だった Paramount Records は最期の日を迎えます。

Paramount は Chicago を始めとする各地や、Port Washington 以外にも、Grafton の Milwaukee 川に近く、Falls Road の北にある古い編物工場(原文では an old knitting mill in Grafton )にスタジオを移し、そこでも録音をしていたようです。

そのようにして為された数々のブルースの録音は、内容的には素晴らしいものだったにせよ、当時の水準からしても、やや「プア」なシェラックで作られたレコード自体は耐久性などに問題があり、また強度も無いために、その多くが破損などにより失われてしまいました。したがって、現在もそれが残っていたとしたら、かなりな希少価値が生まれることとなります。
そして、さらにそれに輪をかけるような「神話」として、1932 年に Paramount が事業から撤退した際に、プレス・マスターと、残っていた 78 回転の SP が Milwaukee 川に投げ込まれた、というものがありますが、どうやらそれは事実ではなく、それらは第二次世界大戦時まで、Port Washington の工場の跡地に出来た Simplicity Manufacturing Co. 内に保管されていたらしいのですが、そこで次第に散逸してしまったもののようです。

1942 年、John Steiner* は Wisconsin Chair Company から全権を買い取って、Paramount の貴重な録音の復刻版の製作に取り組み、数々の名盤が復活を果たしました。
現在では George H. Buck によって彼の Jazzology Records グループの傘下に加えられていますが、当然、かっての Paramount とのつながりは存在しません。

* John Steiner ─ 1908年 7月21日、Milwaukee 生まれ。Wisconsin 大学 Madison 校で化学を専攻して修了。1935 年、Down Beat 誌のレポーターで Okeh Records のプロデューサーでもあった Helen Oakley や、後に Keynote Records に関わることになる Harry Lim とともに、ジャズをサポートする機関 HCC - the Hot Club of Chicago を設立。
それ以降、ジャズに深く関わり、Gene Krupa、Teddy Wilson、Wild Bill Davison、Punch Miller、Jimmie Noone、Squirrel Ashcraft、Bunny Berigan、Tommy Dorsey、Spencer Clark、Django Reinhardt、Duke Ellington、Red Nichols、Stuff Smith、Red Norvo、Jack Garnder、Bud Freeman、なんていう、ジャズ系のミュージシャンたちと仕事をしたようです。
自らのレーベル( Hugh Davis と共同で作った) Steiner-Davis label での録音でも知られていますが、やはり Paramount を復活させた男、として知られています。


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