Devil Got My Woman

Skip James


2004-09-27 MON.


曲が始まってスグ、いきなり遭遇するこれはまた、いったいなんという奇怪な旋律。
ひとつの和音の中で、普通では思いもつかないような沈降と浮上を組み合わせ、まるで「この世のものではない」かのようにこちらの耳をはぐらかしてくれます。
そのシュールなメロディ・ラインは「悪魔」によってもたらされた、とでも言うのでしょうか?
そこに匂う「ダウナー」なものとはいったいなにに由来するのか?

彼はギターだけではなく、時には 22-20 Blues のようにピアノを弾きながら歌っているナンバーも吹き込んでいます。
そちらでは、さほど頭上の「重し(?)」みたいなものの存在は感じないのですが、この Devil Got My Woman や Hardtime Killing Floor などのギター伴奏によるナンバーでは、それをタンジュンに「哀しみ」などという感情では説明し切れないような、なにかしらバイアスをかけているようなもの、ちょうどいま読んでいるイタロ・カルヴィーノの「レ・コスミコミケ」の影響ってワケじゃないけど、歪んだ「重力場」の傾斜に立って、その現状に戸惑っている、とでも言った「不条理」な圧力に拮抗しているがための緊張感⋯あれ?やっぱ本の影響モロだなあ。
で、なんでか、ファルセット系が苦手なワタクシも、彼のこの曲にはキョヒ反応が出ないってのはイッタイ、なんでやろ?

ま、彼のブルースから「何を」感じとるか、は人それぞれでしょうね。
もしお聴きになりたいのであれば、Vanguard から出ている同名のアルバムもありますが、出来れば Yazoo 2009 the Complete Early Recordings - 1930 をおススメいたします。これなら Hardtime Killing Floor も収録されてるし。

Nehemiah Curtis James は 1902 年 6 月21日(異説では 9 日)、Mississippi 州の州都 Jackson の北北東、およそ 30km の位置にある Bentonia 近郊の the Woodbine Plantation で生まれた⋯とゆーことになっていますが、一部の資料では、両親がいたのはそこであるが、実際の出産はそこから States Highway 49 を 24km ほど北に行ったところにある Yazoo City(ここで States Highway 49 は 49-West と 49-East に分かれて北上するようになり、West は Belzoni を経て Indianola を通過、一方の East は Tchula 経由で Blues Heritage Museum もある Greenwood を通り、やがて Tutwiler で再び East と West が合流して、「ただの」49 号線となる)の「有色人種専用病院」で行われた、としています。
ま、いずれにしろ、彼が育ったのは the Woodbine Plantation だったワケですが、1907 年には、当時、密造酒の製造に手を染めていた彼の父(ひところ、牧師でもあった、っちゅう資料もありますが、そのよーな聖職者が、俗世間の悪に親しんでおったのでしょうか?)が妻子を残して、トツジョ「逐電」してしまいますが、おそらく、国税庁の地方税吏からの告発を前に「逃亡」したのではないか、という説もあります。
そのようにして父がいなくなりはしたものの、1912 年(これにも異説があって 1910 年とするものもあります)には、母が彼にギターを買い与えてくれています。もしかすると、プランテーションにいた、ということで、経済的に破綻することなく、「それなりに」生活を続けることが出来たのかもしれません。
これが自立した家庭で、父親が突然「失踪」などしてしまったらかえって「悲惨」な結末になっていたかもしれず、ま、逆に考えれば、プランテーションにいりゃあ、死ぬことはない、なんて打算の上で妻子を残して逃げくさったのやもしれませんねえ。
もっとも、2 ドル 50 セントのギターを買うにあたっては、潜伏していた父からのお金も混じっている、とする資料もありますから、そこらあんまりイージィに決めつけは出来ないのかもしれませんが。

彼にギターを教えてくれたのは Sataria Plantation の近くに住んでいた 5 才年上の Henry Stuckey で、Yazoo 2009 the Complete Early Recordings - 1930 にも収録された 8 小節からなる古謡(?)Drunken Spree も教えてくれた、とされています。
ところで、彼 Nehemiah Curtis James が "Skip" James と呼ばれるようになったのは彼がまだ 6 才のころに、その踊り方がちょっとユニークで、スキップをしているように見えたところから "Skippy" James と言われるようになったところから来ているそうですが、そのヘンについちゃあ異説もありそう。

1914 年には母が彼を連れて、前述した States Highway 49-East の Tchula と Greenwood の中間(かなり Greenwood 寄りで、その郊外とも言える 10km ほどのところ)にある Sidon に移っています。
なんだって、そんなヘンな(だってフツー、プランテーションを出たら、職を求めて「都会」に向かうのが一般的ですからねえ)とこに行ったのか、ってえと、そこに潜伏(?)してた父がいたかららしいんですねえ。
母は、もいちど一緒に暮そう!と迫ったようですが、その話しはまとまらず、するうち、嫌気がさしたのか Nehemiah Curtis James は 1916 年、そっから家出(ま、はたして「家」と言えたかどーか?)してしまいました。
結局、母は Bentonia に戻り、1917 年にはそこに彼も戻ってきます。
母は彼を高校に通わせ、週末は Gooching Bros. の製材所で働くことになりました。
この時期に彼はいとこで学校教師でもあった Alma Williams からピアノの基本を学んでいます。
しかし、1919 年には高校をドロップ・アウトし、150km 近くも北上し、Jackson と Tennessee 州 Memphis とのほぼ中間地点(からちょっと西にズレてるけど)にある Ruleville(そっから 16km ほど西にある Cleveland との間には Dockery )近辺の道路工事現場に住み込んで働き始めました。およそその後の 2 年間も彼はランバー・キャンプをはじめとするデルタ一帯の様々な現場を転々としたようです。

そのランバー・キャンプで働いている時に彼は初めて自分でも曲を作ったようで、それが Illinois Blues だ、と言われています。
週末ともなると彼はギターを携えて 10km ほど北の Charlie Patton や Tommy Johnson、そして Willlie Brown なども活動していた Drew や、逆に 90km ほど南下する Louise や、その少し手前の Belzoni などの町の近くまで赴き、そこで演奏してチップを稼ぐ生活を送っていました。

1921 年には Tennessee 州 Memphis から北西に 70km ほどの Arkansas 州 Weona に移り、そこでもやはり木材関係のキャンプで働いています。そしてそこで、Weona の東、16km ほどの同じ Arkansas 州 Marked Tree から来ていたピアニストの Will Crabtree に出合ったことが、その後の彼のピアノ奏法ばかりか、生き方にまで影響を与えたのかもしれません(本人はそう言っていたようですが)。

長くなるので明日に「つづく」ー

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