Left Me With A Broken Heart

Jimmy Rogers


2004-09-29 WED.


ワタクシ、もともと、ブルースをタンジュンに「シカゴ・ブルース」とか「ヴァージニアのブルース」なんて括っちゃうのが嫌いでして、そゆ用語はあまり使わないよにしておるのではございますが、それでも、まったくのビギナーから、「代表的なシカゴ・ブルースってえと誰のを聴いたらいいでしょ?」なんて尋かれることもあるワケでして、そんな時にイキナリ説教するってのもナンだし、しかたない、ってんで「ここらが妥当かもな」って名前が思い浮かぶのが、この Jimmy Rogers でございます。

それも、本日ご紹介いたしますこの Left Me With A Broken Heart のイントロなど、もう、まさに「純正・正調」の初心者に聴いてもらいたい「シカゴ・ブルース」ってえ気がいたしますねえ。
Little Walter のハープといい、マディのギター(あ、声さえ出さなきゃ、彼も別に嫌いじゃございませんので)といい、もー絵に描いたよーな(?)典型的な「すべり出し」じゃございませんか。

意外とムラがあるよな Big Crawford のベースと、これまた案外、装飾的なスネア・ワークが目立つ Elgin Edmonds のドラムには、いわばバンド・ブルースが完成に向かう過渡期の時代が感じられるよな気がして、これまた一興ですね。

もちろん、ひとによって様々ではあると思いますが、このワタクシにとっては Jimmy Rogers のブルースには、最も「古き佳き日々の」シカゴを感じますねえ。
1953年の 5月 4日、Chicago での録音でございます( Universal Blues Remaster シリーズ UICY 3433 に収録)。

などとヨイショしたあとで言うのもナンですが、ホントにシカゴ・ブルースの原点的なとこでいうなら barrel house bh-04 (シカゴ・ブルースの誕生 CHICAGO BOOGIE! 1947 PCD-1888 )での Little Walter と Othum Brown による I Just Keep Loving Her や同じアルバムの Johnny Young とJohnny Williams による Money Taking Woman こそ聴いていただきたいんですけどねえ。
おそらく「シカゴったらマディだ!」ゆうバカのひとつ覚えオッサン( or ジジイ)に「そんなもん聴くな!」くらい言われそうだよな。
あ、でも Jimmy Rogers は別に嫌いじゃありませんよ。強く迫ってくるもんはありませんけど。

まあ、なんだってそうですけど、ブルースってもんを「地域でくくる」ってのがそもそもオカシイと思わない程度の知能じゃ、能書きまる呑みの「知識としてのブルースでマンゾクしちゃう」んでしょうね。
何度でも言うけど、功績がどうこうなんてカンケ〜無いんだよ。
ダイジなのは「あっ!この曲、好きだ!」と熱くなれるかどうかだけ。

スリムさんの書き込みで知った某ジャズ系雑誌に掲載された Carlos Johnson のアルバム評、ワタクシも立ち読みしてまいりました(誰がわざわざ買うかい!)。

あ、その前に、その江戸川スリムさんから投稿いただいた文章をここに転載し(でないと、掲示板じゃ時の流れとともに「消えて」いってしまいますからね)、紹介しておきましょ。

「ボビー・ラッシュとの共演盤 」(ビリーでしょ?)などの事実誤認は、まあ許せます。
「ブルーズ」と濁った表記も、この際目を瞑りましょう。
「キーボードが時にショボイ (だったかな?よく覚えてない)けど、これもブルーズだから・・・」ってのはちょっと許せぬ。
キーボードがショボイと感じるのは好みの問題だから別にいいんだけど、「ブルーズ」だから許されるって書き方は「ジャズ・マニア」の奢りを感じさせるね。

でも、何よりも頭に来たのは!
評者が何を言いたいのか全く伝わってこないことです!!
良かったのか悪かったのか。
好きなのか嫌いなのか。
あなたはこれを聴いてどう感じたのか!!

帰り道、ちょっと冷静になって思いました。
聴いても何にも感じない人が「お仕事」でリビューすると、こういう文章になるのね、と。
なーんにも感じるところがなかったらリビューを断るぐらいの根性を持たんかいっ!!

ううむ!これはワタクシもチェックしなきゃ!と紀伊国屋書店に駆けつけ(オーヴァー)、さっそく雑誌売り場で群がる高校生どもを蹴散らし(ウソ)、「その雑誌」を手にとってデタラメにパラパラっとめくってくと、おお!まさに神の配剤か(おおげさ)、偶然にも右上の一角を占める記事が「ここよ、ここ!」と言わんばかりに(気のせいです)、おのずと開いてみせてくれたじゃあないの。

一読、その評論の「テンションの無さ」に拍子抜け。
なんだか、「サトー君、キミこれね!」てな具合に割り振られたから「あ、いいっすよー。何枚(あ、これ原稿用紙ね)?」てなチョーシで持ちかえった、っちゅうバック・グラウンドが推測され(モチロンこれはワタクシの「勝手な」推測ですからね。事実はぜんぜんちゃうかもしれませんが)、Carlos Johnson ってなんじゃい?とそそくさとネットで調べ、それらしーことを調える(あくまでも「邪推」です)⋯

てな「まことしやかな」シナリオはともかく、スリムさんのおっしゃる通り、ワタシなんぞにしてみたらイノチの次に大切な(?)「好きか、嫌いか」、の表明がどこにも存在しとりません。
そりゃモチロン中には、う~ん、コレ、どーもよく判らんなあ。も少しジックリ聴いてみないと⋯っちゅうもんだってあるでしょ。
でも、そんならそれで、そー書けばいいんであって、したり顔で「評論」としての体裁をムリに取り繕うからダサい!
ま、取り繕ってる、なんてえ意識も無いとすりゃあスゲえ重症でございますよ。

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