That's All Right

Arthur "Big Boy" Crudup


2004-10-05 TUE.


Arthur "Big Boy" Crudup について語る際には、ホントならこの曲が先なのよねー。
っちゅうくらい「音楽の歴史的には」重要な曲、と言うことが出来るかもしれません。
とは言っても、その部分については、彼の功績ってよりもエルヴィスによってもたらされたものなのでしょうが。
そこら詳しいことはエルヴィスのマニアにお任せするとして、ひとまず聴いていただきましょ。
⋯と言いつつも、ホントは音源もアップしとくのが親切っちゅうもんだよなあ、と毎度、思うのではありますが、そーなりますってえと「権利関係」が絡んでまいりますので、そーはいかないんですねえ。

タマに気が向いた時にアップしてるジャケットの画像にしても、他人が撮影したものを「転用」するのがイヤなもんで、わざわざ低解像度の( 35万画素!)で撮って、それもさらにトリミングすることで、ワザと画質を悪くして使用するようにしております。
だからブルースマンの画像も、自分で撮影したものや、権利者の許諾をいただいた画像しかサイトにはアップしておりません。
てなワケで、メンドーでも、みなさま八方手を尽くして(?)音源を手に入れて聴いてみてくださいませ。

さて、Arthur "Big Boy" Crudup の That's All Right ですが、いわゆる 1950 年代シカゴ・ブルース・マニアのお好きな、あの That's All Right( You told me baby, once upon a time⋯ってヤツね)では「ございません」。

なんだか昨日の Dust My Broom より遥かに「活き活き」してますよねえ。
まずは Ransom Knowling のウッド・ベースの味を活かしきったランニング・ベースが、まるで坂道を転がるかのようにコロコロと走り回り、そこに Judge Riley のキレのいいハイハット・レガートが軽やかに刻み込んできて独特の疾走感があります。
彼のギターも(ま、ソロをとる、ってえほどのもんじゃないよな気もしますが)そこそこいい味を出しておりますが、なにより、そのヴォーカルが実に活きてるんですよ。
ムリにリキまず、煽らず、でも、充分にノビノビと歌い上げていく様が、なかなかいいですよ。
この適度なインパクトが、白人の若造にもウケた、っつーワケなんでしょね。

Bluebird Records はポップスやカントリーのナンバーを扱っていたのですが、いつしか、ブルースやジャズも同等に扱うようになっていきます。1934年に、RCA はシカゴの音楽出版業者 Lester Melrose と契約し、彼が自ら録音したものに関する自由なリリースを認めることとしました。そして、それが思わぬ幸運を招き寄せることとなります。
手始めは 1946年 9月 6日、Melrose は Arthur Crudup の「 That's All Right 」を手に入れました。この曲そのものは シリーズの 4枚目のアルバムのタイトル・チューンだったのですが、それが後に Elvis のビッグ・ヒット=ブレークにつながったのは有名な事実です。

これはワタクシの BLUES日記の以前の記載を転用したものですが、その前に⋯

Arthur Crudup は 1905 年 8 月24日、Mississippi 州の州都 Jackson から National Highway 20 号線を東に 60km ほど辿った町 Forest で生まれています。
1916 年に彼と彼の妹(あるいは姉・・・例によって英語ってのはホントに未熟な言語だと思う)は母に連れられて(父親がどーなったのかはまったく不明!) Indiana に移っています。
彼はそこで 1919 年、製鉄所で銑鉄を鋳型に流し込む作業に従事していたようですが、一部の資料ではこの直後から教会のコーラスに参加してゴスペルを歌っていた、としているものもあります。
1926 年には一家を挙げて Forest に戻っているようですが、その理由なりを示唆する資料は発見できませんでした。
Forest に戻って来た彼はかなり色々な仕事をしたらしいのですが、詳しいことは良く判りません。たぶんコーラスのほうはそれでも続けていたんじゃないか、とは思うのですが⋯

ただ、彼がギターを覚えたのが 32 才になってから、と言いますから、これはブルースマンとしては異例の「遅さ」でございます。
ま、そこらが、この曲での「まあまあ」なギターの理由かもしれませんけどね。
そして 1932 年には the Harmonizing Four というゴスペル・グループに参加します(ってことは、それ以後、グループ名も the Harmonizing Five ってワケやね、たぶん)。
そのグループが 1940 年に Chicago を訪れた際、彼はその街で音楽で喰ってゆく可能性に気付いたらしく、翌 1941 年、彼は本気で Chicago に移ったのでした。

とはいえ、住むところもなく、街頭で、それこそホームレスとして三週間を過ごした後、幸運にも前述の Lester Melrose に拾われ(まず彼は Tampa Red の自宅でのホーム・パーティに連れてゆかれ、そこで Big Bill Broonzy や Lonnie Johnson らとともに演奏することになった)それが前述のレコーディングにつながったのでございますねえ。

彼の最初のレコーディングは 1942 年の Mean Old Frisco Blues でした。その後 the American Federation of Musicians によるストライキを挟み、1944 年から 1954 年まで、彼は RCA との契約下におかれることとなります。
1948 年あたりからの彼は、シカゴと南部を行き来する生活だったようですが、それはモチロン Elmore James や Sonny Boy Williamson とともに南部諸州を回るためでもあったのでしょうが、一説では Mississippi で密造酒ビジネスをはじめて、それがなかなかいい稼ぎになったから、なんてのもあります。
ま、それはともかくとして、この期間に Elmore が Dust My Broom を彼から受け継いだ、ってのが「あり得る」センでございますねえ。

ただし、1954 年まで RCA との契約に縛られていた、とは言え、それだけで喰っていけない、っちゅーワケか、偽名を使って(なんと Elmer James 名義で Trumpet に、Percy Lee Crudup 名義で Checker に)レコーディングなぞもしてるのよね~〜。
もしかしてそれがバレてホされた?ってえ可能性もあるかもしれないけど、契約終了後の彼は音楽業界からいったん身を引いてしまうのです。
それとも案外、例の密造酒ビジネスが順調だったから、だったりして⋯

その彼が音楽シーンにカムバックするのは 1960 年代に入ってからでした。
まずは Bobby Robinson の Fire( 1962 年)、続いて Bob Koester の Delmark( 1967 年)にレコーディング、さらにそれ以降、ツアーの仕事も入るようになり、1970 年には英国、1972 年にはオーストラリアにも訪れているようです。

彼の最期の地は Virginia 州の Chesapeake 湾を大西洋から隔てる半島の Hog Island Bay に面した町 Nassawadox で、1974 年 3 月28日に死亡しています。

さて、上の文中では「お聴かせしたいけど権利カンケイ云々」とゴマカシておりましたが、YOUTUBE の検索を使うと、かなりレアなものでもたどり着くことが出来ます。

たとえば Arthur "Big Boy" Crudup でなら Roebuck Man、Mean Old Frisco、My Mama Don't Allow ME、She's Got No Hair、She's Gone、My Baby Left Me てなあたりがゾロゾロ出てきますよ。
しかもフル・アルバムで聴けるのまでありますからねえ。

ホントにあの頃にこれがあったら「まだ聴いたことはないんですが」ちゅう部分もまるっきり違う著述になってた可能性があります。

で、なによりいいのは「オマエら、このレアなソースなんて聴いたことねえだろ!」と好き勝手な解釈ほざいてイイ気になってるコレクター(?)どもの優位性を「ぶっ飛ばしてくれる」っちゅうとこですねえ。
ええ、どしても超レアなシングルなんぞ入手すると、「これまでアルバムでしか聴いていなかった彼の意外な一面が」などとゆってドヤ顔するヤカラっての、いるんですよ。
さんざクロ〜して入手したぶんイバりたい、ってキモチは判りますけどね。もはやいまの時代、YOUTUBE がそゆのを「無効化」してくれましたよ。

権利カンケイの面ではモンダイもあるんでしょうけど「くだらんマウントとりたがる自称マニア」にとっちゃツラい時代になりましたねえ。

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