In the Year 1944

Sly…


2004-11-11 THU.


1944 年というと、おそらく、この日記を訪れていただいているみなさまは、まだ「お生まれ」になっていないのではないでしょうか。もちろんワタクシも、でございます。
時あたかも第二次世界大戦の欧州戦線ではイタリア半島に上陸した連合国軍がローマめがけて殺到し、Monte Cassino において死守せんとするドイツ軍との間で激しい戦闘が繰り広げられていたころですね。
おそらく日本ではそのころ、戦況が一層悪化してますます庶民の生活は逼迫し、娯楽なんてものは存在自体が敵視されかねない状況だったと思われるのですが、そこら国力の差なのでしょうか、アメリカでは Musicians Union がストライキを決行してるんですよね。
もし日本だったら「あり得ない」でしょ。「この国難のさなかに、なにを考えておるのか!この非国民がっ!」てなワケで特高に連行されてゴウモン責め!

かの名曲、Caldonia が米軍の記念行事のアトラクションとして Louis Jordan によって初演されたのも、この 1944 年の夏と言われています(ただし、レコードとしては Woody Herman and his Thundering Herd が Columbia に吹き込んで 1945 年 2 月に発売されたものが先になります)。
またこの年には Big Joe Turner が Pete Johnson、Albert Ammons とともにツアーを開始し、Arthur Crudup は RCA と契約し、Wynonie Harris は Lucky Millinder Orchestra で初レコーディング( Hurry Hurry / Who Threw the Whisky in the Well )をしています。
また Donald Kinsey の父、Lester "Big Daddy" Kinsey が Indiana 州 Gary に移ってきたのもこの年。
そー言えば、先日の Twilight Time もオリジナル( by Buck Ram )は 1944 年でしたっけ。

一方では、当時のアメリカ黒人の中では恵まれていた Charles Edward Anderson Berry、つまり Chuck Berry が高校生の時に、友人たちと乗りまわしていたクルマが盗難車だったために逮捕され、ケッキョク少年鑑別所に収容されることになる事件を起こしたのもこの 1944 年でした。
で、その後に続けるのもナンですが、我が Screamin' Jay Hawkins が学校をドロップ・アウトして陸軍に入った(たぶん音楽による慰問セクションだと思うんですが)のもこの年です。

さて、この年に生まれたミュージシャンはブリティッシュ系のマニアには重要なスターがいますよ。1月 9 日には「あの」ジミー・ペイジが生まれています(あ、一緒にすんのもけったくそ悪いでしょうが、「日本では」有名だったウォーカー・ブラザースのスコット・ウォーカーことスコット・エンゲルも同じ日に生まれておりますよん)。そしてキンクスのミック・アヴォリーが 2月15日、同じくレイ・デイヴィスは 6月21日、フーのロジャー・ダルトリーが 3月 1日、ジョンが10月 9日、そしてジェフ・ベックが 6月24日!
ええいメンドーだ、だらだらっと羅列しちゃうぞ。
アル・クーパー( 2/5 )、ジョニー・ウインター( 2/23 )、ジョン・セバスチャン( 3/17 )、Diana Ross( 3/26 )、ジャック・キャサディ( 4/13 )、ブルームフィールド( 7/28 )、ピーター・トッシュ( 10/9 )、キース・エマーソン( 11/2 )、Booker T. Jones(11/12 )、デニス・ウィルソン( 12/4 )、なんて人たち、さらに、ワタシにはあまし関心はないけど、って 1944年生まれには、クリス・モンテス、ニッキー・ホプキンス、マーク・リンゼイ、ジェレミー・クライド(チャッド&ジェレミー)、リッチー・フューレィ(と表記すんの正しいのか?)、ジョー・コッカー、ミック・ラルフス、クラレンス・ホワイト、ボズ・スキャッグス、クリス・スペディング、ピーター・アッシャー(ピーター&ゴードン)、ブルース・ジョンストン、ロビー・ロバートソン、ジャッキー・デシャノン、ティム・ボガート、スコット・マッケンジー(一発屋かな?)、ジェシ・コリン・ヤング・・・

もちろん、まだいっぱいいるんですが、そこらはこのぐらいにして、と。
ちょっと見て判るとおり、後のホワイト・ブルース関係者(?)がワリと揃ってますよね。
ちょうどそうゆう年代なんでしょう。
あ、そうそう、いわばアナログ・レコーディングの時代を支えたファイン・テクノロジーとして君臨した、業務用テープ・レコーダーの雄、AMPEX 社が設立されたのも 1944 年11月 1日のことでございました(創始者 Alexander M. Poniatoff の三文字に Exellence あるいは Experimental の Ex をつけたもの)。

そんな 1944 年の春、冒頭で紹介したローマの手前にあったカッシーノの丘を守備するドイツ軍に対し、連合国側は 2 月以降、徹底的な爆撃を実施し、遂に地上部隊による総攻撃を開始した 3 月15日、遠く離れたアメリカのテキサス州 Denton でひとりのオトコのコが生まれています。

Denton は Dallas のほぼ11時の方向に約55km ほど離れた街で、北から南下して来たInter State Highway35 がこの街で二手に別れ、35East と 35West になります( 35East は Dallas を通過し、一方の 35West は Dallas を迂回する形で南に向かって Waco の手前でイーストとウエストが再び合流)。原油を算出し、また天然ガスも算出するようですが、この地に入植者たちが定住するようになったのは19世紀の半ばからで、当初は灌漑の難から、農業は盛んではなかったようです。その水を運ぶために 1850 年には 100 人ほどの黒人奴隷が「導入」された、とされていますので、Denton での黒人たちはそこから始まったものと思われます。1860 年には 87 の事業主(もちろん白人)が合計で 251人の黒人奴隷を使役させていました。
こうして綿花を中心とした農業の発展により、7,000人台だった人口も 1870 年代には 18,000人を超え、さらに鉄道の開通によって運搬手段が生まれたことにより、生鮮野菜も換金作物となっていきます(それまでは外部に搬出するルートが存在せず、圏内で消費するしか無かったワケね)。
とは行っても綿花が中心であることに変わりはなく、1920 年にはその作付け面積は最大となり、さすがに1980 年代には衰退するのですが、1944 年当時はまだまだ中心的な産業だったのではないでしょうか。

ただ、1940 年代には Dallas-Fort Worth 国際空港が完成し、戦時中 Denton はその旅客の宿泊や通過によって様相を変化させて行ったと言いますからから、まさに、そのさなかに Sylvester Stewart は生まれたのでした。

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