Segregation in Southern States

Sly…


2004-11-13 SAT.



The Stewart Four から Stewart Brothers までの間に 7 年の月日が流れているのですが、その間に黒人を取り巻く状況はゆっくりと動き出しています。

1954 年の最高裁の Warren 主席判事が裁決した判決は、黒人子弟の受け入れを認めない「いかなる学校も」アメリカ合衆国憲法の定める「平等の保護」を犯すもので「違憲」である、とするものでした。
しかし、そのような判決が出たからと言って、人種差別がすんなりと撤廃されていったワケではありません。

この翌年には Alabama 州の州都 Montgomery でひとつの事件が起きました。
Montgomery から東に 40km ほどのところにある Tuskegee(当時の資料にアクセス出来なかったのですが、最近の統計では人口の 95% が白人、という町です)で 1913 年 2 月 4 日に生まれた女性、Rosa Louise Parks(旧姓 McCauley )は 1955 年12月 1 日、Montgomery 市内のバスの中で運転手の「そこは白人の席だから、向こうの Colored の席へ移れ!」という指示に逆らったことで「治安を乱した」として拘束されてしまったのです。
アメリカの最高裁はこの逮捕自体を「違憲」である、と裁定したのでしたが、市営バスは座席の分離を改めようとはしませんでした。
これに対し、当時バプティスト教会の牧師だった Martin Luther King Jr.*に指導された黒人たちによる市バスのボイコット運動へと拡大してゆき、南部に根強くはびこっている人種差別の存在を全国レヴェルにまで周知せしめることとなったのです。

*─ Martin Luther King Jr. は 1929 年 1 月15日、Georgia 州の Atlanta で、やはりバプティスト教会の牧師であった父、Martin Luther King Sr. と母 Alberta Williams King の間に生まれています。1948 年には Morehouse College を卒業、続けて Crozer Thelogical Seminary に進み 1951 年にはそこから Boston 大学に入学し、まさに 1955 年、哲学の学位を手にしたばかりだったのです。
そしてその直前の 1954 年には Montgomery の Dexter Avenue Baptist Church の牧師となっていました。
この Rosa Parks 事件に対抗するバス・ボイコットを主導する中で 1957 年には Southern Christian Leadership Conference を設立し、いわゆる「公民権運動」のリーダーとして活動してゆくこととなります。
さらに学生を対象にした Students Nonviolent Coordinating Comittee も作り上げましたが、これは Nonviolent = 非暴力、という表題から連想されるように、インドのガンジーから影響を受けたもの、とされています。
ただし、その「非暴力」方針に飽き足らず、より「実力行使型」のラジカルな分派もやがて派生しては来るのですが⋯

このムーヴメントのきっかけとなった Rosa Louise Parks は、1960 年代には Detroitに移住しています。
ただし、このような隔離された座席にまつわる抗議行動はどうやら Rosa Parks が最初、というワケではなかったようで、およそその 11 年前に、大西洋に面し、アメリカ建国以前には英国の統括する地であった Virginia 州 Gloucester から、その北東にあたる Maryland 州 Baltimore に向かうグレイハウンド・バスの中で、当時 27 才の女性、Irene Morgan がこれも同じように白人に対して席を譲らなかったことによって逮捕されています。
この時には、差別を容認する州法の違憲性を争うのではなく、州境を超えて運用されているグレイハウンド・バス内での事件である点に着目し、州境をまたぐ通商行為と見なして、一般通商に関する法規は州法によっては規制されない、という「絡め手」から彼女の無罪を勝ち取っています。これ以来、州境を超えて運行される交通機関内においては、白人・非白人の分離座席は撤廃されることとなったのでした。

ところで Detroit に移住した Rosa Parks は 1994 年に強盗に襲われています。襲ったのは Joseph Skipper という黒人で、Rosa は「あなたはワタシが誰だか知っているの?」と尋いたのですが、犯人は「知ってるけど、それがどうした」と殴りつけたことが判明し、非難を浴びました。
それとはカンケー無いのですが、Rosa は 1999 年にアメリカ議会から人種差別に対する闘争を評価されて金メダルを授与されています。

Rosa Parks 事件当時、Sylvester はまだ 11才くらいで、はたしてどの程度、事件に対して認識していたでしょうか?しかも、南部ではなく、比較的開放的な西海岸で、しかも造船を支える労働者層の多い地区では、南部諸州の州都のように「保守的な」白人層が圧倒的支配力を発揮している場所とは、そのテンションが違っていたかもしれません。

続いて起きた事件として重要だったのは、1957 年に Arkansas 州 Little Rock の Central High School で起きた当時の州知事 Orval Eugene Faubus による黒人生徒の登校を実力で阻止しようとした件でしょうか。
これは Rosa Parks 事件の一年前に、Memphis で公園内の人種による立ち入り制限区域を設けること自体が「違憲である」と判断した最高裁の判決に基づき、それまでは黒人子弟の入学そのものを認めていなかった学校に黒人の学生が登校しようとしたのに対し、州知事が州兵を出動させて学校前を閉鎖しようとしたものです。
もちろん、その行為は連邦大陪審並びに最高裁の決定に反旗を翻すものでした。
時の大統領、Dwight D. Eisenhower はこれを違法と認め、逆に連邦軍を出動させて、黒人の入校を阻止していた州兵を「排除」しました(というより、軍事的ハイアラーキィからいって、連邦軍の前では州兵は「自動的に」連邦軍に「吸収」されるワケで、その時点でロック・アウトは不可能となり、逆に黒人生徒が無事に通学できるように「守る」立場になる!)。
このようにして 9 月 4 日には 9 人の黒人生徒は学内に入ることが出来たのですが、その結果、9 月23日、登校して来た 9 人が見たものは、学校の前に詰めかけた攻撃的な白人の千人を超える暴徒でした。いったんは市警察の護衛で校舎に入ることが出来ましたが、暴徒による騒乱が激しさを増してきたために混乱を避けて退出しています(一説では実力で排除された、とも言います)。
この事態を受けて Eisenhower 大統領は翌日、Fort Campbell の米陸軍・第 101 空挺部隊を投入し、9 人の生徒の登校を「護衛」したのでした。

この事態の推移はアメリカ国内はもとより、全世界の注視を浴びることとなり、そのような「世界が見ている」という圧力が、もしかすると頑迷な「南部主義者(?)」たちにも「差別撤廃」が歴史の流れだ、と思い知らせることになったのかもしれません(ま、いまだにそーは思ってないのがイッパイいそうですが)。

この時の 9 人の生徒は、後に Little Rock Nine と呼ばれることになります。

★うへぇ~!急に気温が 10度近くも下がったよう!冬じゃ!
この寒さで街路樹もいっせいに葉を落とし始め、プラタナスの並木の歩道なんて、枯葉だらけになってます。さすが葉がデカいだけにスゴいなあ。蹴散らして歩かなきゃ。

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