Five-and-ten-cent-store

Sly…


2004-11-14 SUN.



昨日の Little Rock Nine は、極めてドラマチックな展開で、世界中から注視を浴びましたが、続く 1960 年の Woolworth Lunch Counter 事件は少し様相が違います。

でも、その前に・・・
いま、日本では百円ストアがスゴい勢いで店舗数を増やしていますよね?
実は 1911 年、すでにアメリカでは F.W. Woolworth によって六店舗の「単一価格販売店」がスタートしておるのですよ。
それは five-and-ten-cent stores と呼ばれ、その発足当時には、いまの百円ストアとは「決定的に違う」特徴を持っていました。
後にはその方式から脱するのですが、最初の five-and-ten-cent stores では、商品は並んでおらず、客がカウンターでリストから欲しい商品を店員に言うと、カウンター内および背後のストックヤードからその商品を出してくる、というシステムをとっていた点でしょう。
人件費が高騰している現在ではとても考えられないような「対面販売」をしていたワケですね。

この、どの商品も 5 セント、あるいは 10 セント(当時の GDP を考慮すれば、おそらく現在の 50~70 円くらいと 100~150 円相当の単価ではなく、もっと上のレンジになるのかもしれません)という固定価格で販売する、というこの形態は、その安価さ(あるいは「安価感」か?)から大衆に受け容れられ、当然、他社による、この業種への新規参入も相次いでいます。
20 世紀の前半において、この分野では Woolworth を追うように Kress Stores、Kresge's、Alco-Duckwall Retail Stores などが次々と出現し、もちろん、それによって従来の個人の小売店が駆逐されたのも、最近の日本での例と似ていますね。
この Woolworth は 1997 年 7 月17日には傘下の 400 にもおよぶ F.W.Woolworth five-and-ten-cent store をすべて整理し、そのジャンルから撤退しています。

ところで、それらの five-and-ten-cent store は最初のカウンターのみの店舗から、現在の百円ストアのように店内に商品を陳列(というよりは「山積み」という表現がふさわしいのでしょうが)するようになり、また、客数の伸びにつれて、ファースト・フードのキッチン・カウンターも設け、客はそのカウンターで、あるいはそこからテイク・アウトして Lunch Court と呼ばれる屋内の広場に用意されたテーブル席で食事も出来る、というシステムが出来上がっていくことになります。

大西洋に面した North Carolina 州の中でも三番目に人口が多い内陸の町 Greensboro にあった Woolworth のランチ・カウンターの「白人指定」の席に 1960 年 2 月 1 日、4 人の黒人学生が座り込んだことからまたひとつの事件が起きています。
Woolworth は、そこが黒人の座るべきところではない、という理由でサービスを拒否しました。それに抗議した学生は、そこに「座り込み」を始め、座り込みはその規模を拡大し、座り込みに参加できない学生たちは衣服や食料などの援助を続けています。
そして、このとき、最も重要な変化としては、その座り込みに「おおっぴらに」白人の賛同者も参加した、という点でしょう。
支持する広範囲な層による「不買運動」と、連日の報道によるダメージは Woolworth にとっても深刻な問題であったことは確かで、この数ヶ月に渡るボイコットによって Woolworth はもとより、同業の他社もランチ・コートあるいはランチ・カウンターの「白人指定」を撤廃することになりました。

この事件が起きる元となった Woolworth のランチ・カウンター(レプリカじゃなく、現物!)は現在、Smithsonian Institution* に保存・展示されています。

*─ James Smithson ;イギリスで 1765 年に生まれた鉱物学および化学者。彼の資産(およそ 50 万ドルと言われています)は遺志により、アメリカの文化や知的財産の保全を目的とした協会を設立することに使われ、それによって 1846 年、Smithsonian Institution が発足しています。ライト兄弟の飛行機、キティ・ホークなどが保存・展示されている。
あ、そうそう、ケッキョク、英国人の彼がなぜアメリカにそのような寄付をしたのか、はホントのところ判っていないみたいですよ。

さて、この頃の Sylvester⋯いえいえ、もう、あのニックネームを奉られた後ですから Sly でいきましょ。
彼はなにをしていたでしょか?

正確な年月日が判明しないので、確実なことは言えないのですが、Joey Piazza and the Continentals のメンバーとして活動もしていた高校から Vallejo Junior College に進み、器楽演奏としてはトランペットを専攻し、さらに音楽理論と作曲手法を学んでいます。時期的にはこの Junior College か、あるいは、そこからさらに D.J. の基本を学ぶために入った Chris Borden School of Modern Broadcasting(どんな実態なのか調査しようとしたのですが、資料が浮上して来ません。もしかすると、「各種学校」のレヴェルなのかも)で勉強しているあたりだったのかもしれません。

1962 年、University of Mississippi( 1848 年に創設された同州内ではもっとも歴史のある大学で「 Ole Miss 」が愛称。同大学内には全米一の規模を誇るブルース・ミュージックの記録を持つ)に一人の混血男性が入学することとなりました。
James Howard Meredith は Mississippi 州の州都 Jackson から 1 時の方向に 100km ほど離れた Attala 郡の Kosciusko(人口は 1 万人に届いていない小さな町で、黒人と白人が「半々」に近い)で、1933 年 6 月25日、ネイティヴ・アメリカンと黒人との間に生まれています。
高校卒業後すぐにアメリカ空軍に入り、1960 年に除隊すると、Jackson State College で 2 年間学んで、いよいよミシシッピー大学へ、という選択だったため、この時の彼はすでに 29 才になっていました。
この「黒人」がミシシッピー大学に入学するのを阻止するため、当時の州知事、Ross Robert Barnett( 1898 年 1 月22日生まれ、コイツはこの時だけじゃなく、その翌年に、ミシシッピー州立大学のバスケット・ボール・チームが「黒人もいる」 Chicago の Loyora チームと対戦することも妨害しようとしています。もっともミシシッピー州立大学のチームは知事の意向を無視して試合をしていますが。1987 年11月 6 日死亡)は実力で大学を封鎖して 9 月20日の学籍登録を阻止しました。それに対し、当時の大統領、John Fitzgerald Kennedy はなんと州兵 20,000 人を投入し、Meredith を学内に入れることに成功していますが、その際の騒乱で 2 名の死者が出ています。州兵側の 48 人を含み負傷者も 300 人といわれており、いかに「騒然としていたか」が判ると思います。(一部では 1963 年の Dallas での暗殺は、この時の一件が絡んでいる、と見るひともいるようですが⋯)

James Howard Meredith は Ole Miss を 1963 年 8 月18日に卒業し(おそらく、教養過程に当たる部分を、その前の Jackson State College で履修していたために、専攻した科の単位を満たすだけで卒業出来た、ということかもしれません。今回はそこまで調べていないのであまり確かなことは言えないのですが)、そこからいったんアフリカのナイジェリアの University of Ibadan で 1964 年から 2 年間、またアメリカに戻って、こんどは Columbia University に 1966 年から 2 年間在籍し、法律学を修めています。
一方ではアメリカ国内で高まってきた公民権運動にも積極的に参加し、1966 年には Tennesse 州 Memphis から Mississippi 州 Jackson までの大行進の先頭に立っている時に「何者かによって」狙撃され、負傷する、という経験もしました。
ただ、その彼も共和党員となって政治を目指したあたりから保守化が激しくなり、南アフリカの人種差別政策を牽制するための経済封鎖や、Martin Luther King Jr. の誕生日を国民の休日に、という法案にも「反対」するようになってしまいました。

なんだかなあ。

permalink No.936

Search Form