I Have A Dream : 2004-11-16 TUE.

さて、昨日のとこで採り上げた一連の事件のあった 1963 年は、しかし 11月になって起きたアメリカばかりか世界を揺るがした「大事件」によって記憶されることになってしまったのでした。

1963 年11月22日の白昼、在任一千日を超えたばかりのアメリカ合衆国第 35 代大統領、John Fitzgerald Kennedy が Dallas 市内で狙撃され、死亡したのです。
もっとも若くして就任した大統領であり、もっとも若くして在任中に死亡した大統領である Kennedy は先日採り上げた James Howard Meredith の Ole Miss 入学の際には実力で暴徒を制圧していますが、かと言って、人権法の制定に関しては決して積極的な方ではなかった、と言われています。
皮肉にも、彼が上程した数々の法案の審議が促進されて黒人差別や性差別などの禁止が織り込まれた人権法案が成立したのは、Kennedy 大統領の副大統領であった Lyndon B. Johnson が大統領に昇格してからのことだったのです。

大体においてリベラルな民主党、というイメージが最近では支配的なようですが、当時の民主党には人種差別撤廃など「とんでもない」などと発言してはばからない南部諸州出身議員( South Carolina の Albert Watson や William Jennings Bryan Dorn を始め、Louisiana 州の Joseph David Waggonner Jr.など)が多数いて、結局、人権法案は、むしろ「中道的な」共和党員の賛成を多く獲得したことによって成立した、というのが実態でした。

1960 年の大統領選挙の際には「人種差別の撤廃」や「雇用機会の均等」、「選挙権・被選挙権の開放」を標榜し、その選挙活動に、獄中にあった Martin Luther King Jr.(その時は直前の Atlanta のデパートでの座り込みによって逮捕され、1956 年に犯した交通違反に基づく執行猶予中であったため、4ヶ月間の強制労働を命ぜられていました)の妻を招いた甲斐もあって、黒人票の 68% を獲得したことによって指名を獲得した Kennedy でしたが、当時の民主党内「右派」は、共和党のそれよりも質・量ともに無視出来ないプレゼンスを持っていたようで、議会対策としてはむしろ、共和党の中道派を取りこむ方が可決への近道、という皮肉な状況だったのです。

先日( 11/13 )の日記でも少し触れましたが、Martin Luther King Jr.の 1957 年以降の動きを・・・
1957 年 3 月 6 日にはアフリカの新興独立国 Ghana の独立式典に出席し、大統領 Kwame Nkrumah(どう発音するのか?なんて尋かないでねん)と会談しています。また同年 6 月13日には Ralph D. Abernathy とともに Dwight D. Eisenhower 大統領の副大統領、Richard M. Nixon と面会しています。
1958 年 6 月23日には、他の公民権運動のリーダーたちと当時の Dwight D. Eisenhower と面会を果たしています。そして 9 月17日には著書 Stride Toward Freedom: The Montgomery Story を発行していますが、その三日後には New York の Harlem にあった Blumstein デパートで自著のサイン会を開いていたのですが、そこで Izola Ware Curry という男に刺され、緊急搬送された Harlem Hospital の医師団は彼の胸部から刃渡り 18cm ほどのレター・オープナーを除去することに成功しました。
1959 年の 2 月にはインドを訪れネール首相とも会談し、ガンジーの後継者たちとも会っています。彼の非暴力主義への傾倒はさらに強化されたのではないでしょうか。
1960 年 2 月 1 日には一家を挙げて Montgomery から Atlanta に移り、父が牧師をしていた Ebenezer Baptist Church で助手を務めることになります。
5 月25日から始まった彼の税金にまつわる不正行為の有無をめぐる裁判では、28日に、白人の陪審員は「無罪」と表決。
6 月23日には New York で大統領選の候補であった John Fitzgerald Kennedy と「プライヴェート」に会合を持ちました。大統領選への支援や、公民権運動への支持、といった内容ではなかったかと「思われ」るのですが、なんと Martin Luther King Jr. は同年 10月19日、Atlanta 市内の Rich デパートで抗議行動のための座り込み中に逮捕されてしまいます。上の方でも触れていますが、1956 年の交通違反に関する執行猶予期間内である、という理由でそのまま収監されてしまったため、選挙の応援をすることが不可能になっています。2000 ドルの保釈金を積んで開放されたのは 10月27日のことでした。
1961 年には既に大統領となっていた John Fitzgerald Kennedy に10月16日に面会し、人権法案の促進を直訴しています。その年の 12月16日には Georgia 州 Albany において Ralph Abernathy や他の活動家 264 人とともに、抗議行動中に逮捕されています。
1962 年 9 月28日に Alabama 州 Birmingham で行われていた SCLC の会議中に「アメリカ・ナチ党員」に襲われ、顔面を殴打されました。

1963 年になって、4 月にはまたもや収監され( 12日~19日)ていますが 5 月 7 日には Birmingham で行われた 4,000 人の抗議デモに対して警察署長 Eugene "Bull" Connor は高圧放水や警察犬を使用しましたが、その映像が報道されたことによって、国内外からの批判が吹き出します。そして 8 月28日、ワシントン大行進(おそらく 20 万人の参加があったとされています)が行われ、ここでの彼の演説 I Have a Dream は、John Fitzgerald Kennedy の大統領就任記念演説 Together とともに、「曲」としてリリースされることになったのでした。この行進の後、彼と他のリーダーたちはホワイトハウスでケネディおよび副大統領の Lyndon B. Johnson と面会しています。
そして昨日の日記で採り上げた Birmingham の教会爆破事件の被害者の葬儀に弔辞を送っています(彼女たちの葬儀は、Addie Mae Collins、Carol Denise McNair、Cynthia Dianne Wesley の三人と、Carole Robertson ひとりの葬儀が分離して、それぞれ 9 月18日に行われたようですが、統合されなかった理由は判明しませんでした)。
ところで、Kennedy 政権は、Martin Luther King Jr. のプレゼンスに敬意とともに警戒心も抱いていたらしく、時の司法長官 Robert Fransis Kennedy は、FBI(連邦捜査局)に対し、彼の電話回線を「モニターする」許可を与えています。

そして 11月22日・・・
それまでは公民権に対しては積極的に改善しよう、という動きが見えなかった、それまでの副大統領、Lyndon B. Johnson が大統領に昇格するや、急に積極的に共和党議員をも巻き込んで議会工作を始めるのだから、人間ってのは判りませんね。
ことこの分野に限って言えば、法制化の速度は Kennedy より Johnson の時代の方が早かった、と言うことになります。

とは言え、アメリカ国内、いえ、世界的に見ても John Fitzgerald Kennedy の人気は、Johnson なんか(シツレイ)が足元にも及ばないレヴェルなんですからねえ。

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