Invoked : 2004-11-19 FRI.
ところで Autumn Records での Sly が関わったミュージシャンとしては、他に the Mojo Men ってのがおるらしいんですが、みなさんご存知ですか?
どーやら初期にはブリティッシュ・サウンド(?)を目指してローリング・ストーンズやゼムのカヴァーなどしておったバンドらしいんですねえ。
Autumn から出した Dance with Me や She's My Baby、そしてストーンズのカヴァー Off the Hook なんてのも「ちょっとしたローカル・ヒット」とはなっていますが、ピークを迎えた(?)のはその後、同じく Autumn 所属の San Francisco のフォーク・ロック・バンド the Vejtables から、曲も作り、自らも歌う女性ドラマーの Jan Errico が加入して Reprise に移籍してからのことになります。
とは言っても、Mamas & Papas の二番煎じみたいなサウンドだったらしく(音質のワルいサンプルで試聴した限りじゃ、ホント「けっ、フォークじゃん!」って切り捨てられてもモンクは言えないよなサウンドですね。あ、ここでの「フォーク」はケーベツ的ニュアンスで使われておりますので悪しからず。フォークならフォークでいいんですが、それがロックに色目を使うとロクなことおまへん。いちおー Hanky Panky なんて曲もやってはいるんですが、まあサマになってないことおびただしい⋯)、結局バッファロー・スプリングフィールドなんぞのカヴァーで一度注目された程度で「消滅」してしまったようです。

ハナシを少し前に戻しまして、Martin Luther King Jr. のその後です。
1964 年の11月に彼は FBI に対して、公民権運動家たちを守ろうとしていない、と非難し、それに対して FBI の長官 J. Edgar Hoover は Martin Luther King Jr. を「我が国で最も悪名高き嘘つき」と応酬し、さらに SCLC を「コミュニストの手先で、モラルをダラクさせるもの」と発言しています。そして、まさにそんな司法長官の顔に泥を塗るように、オスロのノーベル賞審査会は Martin Luther King Jr. に対し「ノーベル平和賞」の授与を決定したのでした。
これは言わば「世界はアメリカ政府の公民権運動に対する態度に失望している」ことをも意味していたのですが、アメリカ国内では相変わらずの迫害・虐待が横行していました。

1965 年は King 一家が Atlanta に移動した年でもありますが、3 月 7 日には Alabama 州 Selma の Brown Church をスタートし、80km 東の Montgomery まで歩く「選挙権」を要求する 600 人ほどからなる行進が Edmund Pettus 橋に差しかかったところで、保安官代理やアラバマ州警察に「襲撃され」警棒による殴打、催涙ガスの発射などにより行進を「暴力」によって阻止された BLOODY SUNDAY 事件が起きています。そしてこのときも FBI は記録としての写真撮影まで行っているのに、この暴力を「止める」ような働きかけは一切行っていません。
二日後に King は Brown Church から橋までの道を歩き、その意味を国内外に知らせようとしています。またこの事件のニュース映像フィルムが各地の映画館(当時は上映プログラムの中にニュース映像も含まれていたのです)で上映されるにつれ、警察側の過剰な暴力が国内外の批判を浴びるようになりました。
そして、その間にも法廷で「公共のハイウエイをデモのために占有することの是非」が審議され、最終的には、たとえハイウエイであっても、正当な主張のために行われる行進は、これを認める、という連邦地裁判事 Frank M. Johnson の判決によって以後、それを口実に行進の参加者たちに暴力を振るうことが出来なくなりました。
そこであらためて行進は 3 月21日に 3,200 人もの参加者で再開され、日に十数キロを歩いては路傍で野宿する、という行程で 25日に Montgomery に到着したのですが、そのときには途中から参加した人々によって、その数は実に 25,000 人にも達していたのでした。

もちろん、ハイウエイの「不法占有」などというのは「最初から」行進を実力でツブしてやろう!という警察の「口実」に過ぎず、「白人に逆らったらどうなるか、思い知らせてやる」というのが襲撃の目的ですから、その行為は完全に逆効果だったことになります。
ついでながら、このときの州知事はモチロン Wallace。
そしてこの年、Lyndon B. Johnson によって選挙権も含む人権法案が成立しています。

続く 1966 年、2 月に King は Chicago で Nation of Islam の指導者 Elijah Muhammad と会見。
6 月 7 日、Tennessee 州 Memphis から Mississippi 州 Jackson への March Against Fear をおこないますが、Memphis では、行進に参加していた James Meredith が狙撃され、負傷しています。
このあたりになると、人種差別撤廃を「法規上でも」明文化して国際的にも評価されたがっている合衆国政府に、徐々に州政府も押し切られるようになって来たためか、それが気にいらない保守的な白人層の中では暴力的に先鋭化・孤立化する傾向が出てきます。

さて、一方の Sly 君は、ってえと、Cynthia Robinson との the Stoners、弟や Greg Errico と組んだ(あ、この Greg と、the Vejtables の Jan Errico のカンケーは「さっぱ判りません」。おそらく赤の他人じゃないでしょか・・・だったら書くな、って?にゃははは) Freddie & the Stone Souls からいよいよ・・・
って、その前に、どーも Billy Preston の吹き込みにも参加してるよーです。
In the Midnight Hour / Advice ( Capitol 5660 )と Phoney Friends / Can't She Tell ( Capitol 5797 )の二枚のシングルに with Sylvester Stewart のクレジットがあります。
ここでの Advice ってのが後の Whole New Thing に収録された Advice のオリジナルだ、と言われていますが、それがホントに同じものかどうかは判りません。なんせ、この Billy Preston のほーを聴いたことがないもんで。

そして 1967 年、Sly はギターとして弟の Freddie Stewart( 1946 年 6 月 5 日 Vallejo 生まれ)、そしてその Freddie にとっては姉、Sly にとっては妹である Rosie Stewart( 1945 年 3 月21日 Vallejo 生まれ)をピアノに、さらに、かって the Stoners で共演したトランペットの Cynthia Robinson( 1946 年 1 月12日 California 州 Sacramento 生まれ)を招き、そしてサックスに Jerry Martini( 1943 年10月 1 日 Colorad 生まれ)、さらに、いとこの Larry Graham( 1946 年 8 月14日 Texas 州 Beaumont 生まれ)のベース、ドラムは白人の Greg Errico( 1946 年 9 月 1 日 San Francisco 生まれ)というメンバーで「遂に」 SLY & THE FAMILY STONE が「始動」したのです。

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