Death in Memphis : 2004-11-22 MON.
Sly & the Family Stone が全国的にブレイクすることとなったアルバム、Dance to the Music がリリースされたのは 4 月27日のことでしたが、その前にひとつ、とても大きな事件がありました。
まず 3 月28日には Martin Luther King Jr. がおよそ 6,000 人による Tennessee州 Memphis での「衛生労働者のストライキ*支援」行進を率いたのですが、この行進は結局、暴力と略奪の騒乱の中で挫折してしまいます。

*─ 1968 年 2 月 1 日に 2 人のゴミ収集職員がその作業中に死亡したことに始まり、環境改善や待遇の見直しを求めてストライキに入ったため、Memphis 市内には一時 1 万トンとも言われる未収集のゴミが山積されることになりました。
Memphis 市長 Loeb は、もし、職場に復帰しないのならば、「新規に雇う」と発言し、この発言で事態はさらに悪化します。Washington から出向して来た Union に対し仲介を依頼しましたが解決せず、そればかりか、ストライキに参加しなかった職員が 38 台(本来は 180 台で収集にあたる)の収集トラックで作業しようとすると、それに対して実力で妨害しようとする動きがあるため、警察がゴミ収集トラックを「護衛」する有り様でした。
2 月16日、組合側は市議会に、市長との仲介を依頼しますが、市議は市長を擁護してこれを拒否。対抗するかのように Memphis の NAACP(全米黒人振興協会)は組合側を支持。
2 月19日、NAACP とその賛同者たちによって市庁舎にピケを張り、翌日にはダウンタウンの商店すべてをボイコットするように指令を出しています。
22日には 1000 人ほどのストライキ参加者とその賛同者によって市議会の副議長らがカンヅメにされ、組合側の要求を市側が認めるように働きかけることを強要していますが、もちろん、事態はいっそう悪化するだけでした。
このあたり、衛生職員の組合と、それを支持する賛同者たち、さらに組合の全国組織、市長、市議会、と関係者が拡大していったために余計、混迷をきわめていた、と言えるかもしれません。しかも、これまでの平和行進などとは異なり、街中にゴミが溢れたことによる市民の憎悪が労働条件の適否ではなく、組合およびその支持者に収斂し始めていたことは確かです。

そんな中、市長が個別の職員にストライキから職場に復帰するよう手紙で呼びかけたり、またデモ行進中のリーダー二人が「信号無視」で逮捕される、という事件も起きました。さらに市長の自宅の窓が破壊され、市長はこれを組合側の暴力として非難しています。
都合 116 人もの組合員及び支持者が逮捕されてしまい、ついに Martin Luther King Jr. が出て来ることとなったのでした。
また 3 月 9 日には市長の示唆に基づき、州兵は暴動鎮圧態勢に入っています。
NAACP の Roy Wilkins は、事態をこれ以上悪化させないために抗議運動を「平和的に行うように」という要請を出しています。逆に言えば、それほどまでにストライキに対する「憎悪」も、組合側の市に対する憎悪もエスカレートしていた、ということなのでしょう。
当初、12,000 人もの参加が予定されていた抗議行進は、雪のために Martin Luther King Jr. が到着できずに「延期」に。
そして 3 月28日、市内の Clayborn Temple からシティ・ホールまでの行進が King に率いられてスタートしましたが、例の市長宅の窓破損の嫌疑の名目で警察がこれを「襲撃」し、警棒で乱打し、盾で殴り、催涙ガスや銃による射撃などによって16 才の少年、Larry Payne が死亡しています。警察は 280 人を逮捕し、負傷者(黒人ばかり!)は 60 人ほど出ました。
州議会は午後 7 時以降の外出禁止令を発令し、州兵 4,000 人を移動させています。
翌日には再度、行進が行われましたが、それは装甲兵員輸送車やジープ、軍用トラックなどに周囲を固められてのものでした。
この日、市長は Johnson 大統領の「仲介する用意がある」という提案を「拒否」。
28日に死亡した Larry Payne の葬儀が 4 月 2 日に行われ、翌日には Martin Luther King Jr. が Memphis に戻ってきました。


この Memphis での「騒乱」は市民生活に影響を与えたゴミ収集のストップという事態が絡んだせいか、被害者(?)たる市民をも巻き込み、単純に「権利闘争」とは言い切れない側面を持ってしまったがために、市側も強硬になり、さらに事態を悪化させたのかもしれません。黒人にだって権利を与えるべきだ、という「寛大な」白人にしても、自分の生活に支障を来すことになれば、一転して「思い知らせてやる」、になる可能性はあるワケですからね。

そんな状況の中、4 月 4 日、Martin Luther King Jr. は Memphis の Lorraine Motel のバルコニーにいるところを James Earl Ray という男に狙撃され、死亡しました。

これが Dance to the Music がリリースされた直前に起きた「大事件」です。
おそらく、もはやレコーディングの作業は終り、すでにプレスから、ジャケットへの収納も済ませ、配送を待つ状態だったかもしれません。
ま、そこは断言できるものではありませんが、おそらく、このアルバムには Martin Luther King Jr. の暗殺による影響というものは「無い」と考えてよいのではないでしょうか。
そして、このアルバムこそ、彼らが世に迎え入れられた記念碑的な作品で、タイトル・チューンでもある Dance to the Music は Pop チャート 8 位/ R&B チャート 9 位、を記録しました。
また二曲目には例の Epic 10229 のシングルの Higher が収録され、同じく Loadstone 3951 の I Ain't Got Nobody も収録されています。

このアルバムの成功によって、彼らの知名度は全国的にアップし、国内ツアーも行われました。ところで、Dance to the Music については、昨年 9 月13日にとり上げた King Curtis の Memphis Soul Stew のとこでも採り上げてますよね。おそらく、この演奏スタイルにはかなりの影響があったのではないか?と考えております(が、まったく無関係、ってことも「無い」とは言い切れないかも?)。
さて、この Dance to the Music ですが、先ほど、チャートのとこで気付いたこと、ございませんか?そ!フツー、ここで採り上げるナンバーって大抵は R&B チャート 4 位、Pop チャート 12 位・・・なんてゆうふうに、R&B チャートの方が「上位」まで行ってるんですよね。
しかるに、この Sly & the Family Stone では「そうじゃない」んです。つまり、一般的なファンク、ソウル、R&B にはキョーミの無い、それこそロック・ファンたちが「かなり」買っている、ってことなんですよ。そこが彼らの「強み」だったワケです。この時点では・・・

とあるサイト(ぜんぜん音楽ちゃいます)のレシピを見てたらパン・プディングの作り方が載っておりました。
ネがタンジュンなワタクシのことでございますから、さっそく触発されちゃいます。とは言え、そのままではナンですから、ちょっとばかしアレンジさせていただいて「フレンチ・トースト」を造るといたしましょ。
えーとなになに?プリン液を作る?そりゃあちっとムリがあるなあ。あ、プリン・アイス買ってあるから、それ使お!と、いささかランボーな修正を加えて強行いたします。

タマゴ二個をよ~く白身が切れるように混ぜて(あ、オムレツとかだと混ぜ過ぎちゃダメなんだよ)牛乳とプリン・アイスを加え、プリン液(と言えないこともないよな「美味しそな」液体)が出来ました。
ここに 2cm角に切った食パンをほりこみ、全体にしみ込むまで待ちます。
液がパンに吸われて無くなったらキャセロール(耐熱容器。無きゃパイ皿でもいいよん)に薄くバターを塗り(あ、もっと軽く仕上げたかったらマーガリンね)、そこにグジョグジョの(って言うとなんかマズそう)パンをテキトーに並べ、170度に熱したオーヴンで 30分!
なんたってプリン・アイスの甘味が加わってますから、そのままでもいいんですが、ケーキ並みの甘さが欲しい方は焼き上がりと同時に上からグラニュー糖でも振るか、さもなきゃ食べるときにパウダー・シュガーなどまぶすのもよろしいかと。

え?出来?上々でんがな!

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