Little Hat Blues

Little Hat Jones


2004-12-30 THU.


イントロではかなりトバしてる彼のブルースですが、歌が始まると急に減速するそのスピード感(?)が笑えますが、どうやらこれ、彼の特徴みたいで、他の曲でもやはり「減速」で前につんのめりますよ。

その歌は、どっかそのへんにこんな声で歌いそなオッサンいたなあ(あ、たとえですよ。本気にしないでね)っちゅー、どっかで聴いたよな声で、ま、言い方は悪いけど、なんか白人っぽい声やねえ。
1930 年の録音といいますから、そのワリにはいい音質で残っていますね。
この時期の録音は、SP からしかリイシュー出来なかったりすると、かなり悲惨な音質だったりするんですが、これはかなりのレヴェルです。
収録アルバムは Yazoo L-1032 BLUES FROM THE WESTERN STATES 1927 - 1949 で、これには他にも Cherry Street BluesCross The Water Bluesと、彼の曲が二曲入ってます。

Dallas のダウンタウンの東側にある Elm Street(エルム通り)は、 1963 年11月22日の白昼、在任一千日を超えたばかりのアメリカ合衆国第 35 代大統領、John Fitzgerald Kennedy がその通りの西の端で、南側を並行していたコマース通りと接近するために左に湾曲して行くゆるやかなカーヴ地点にさしかかったところで「不特定多数」の狙撃者により、「前後から」銃撃され死亡したことによって有名になってしまいました。

しかしその通りをさらに東に向かったあたりは、かって黒人たちによって Deep Ellum と呼ばれ、数々のクラブの存在や、ストリート・ミュージシャンの集うところとして「文化」の中心でもあったのです。
19世紀の晩期、この区域の周辺には黒人の居留地区のひとつがあり、その安価な労働力に目をつけた Robert S. Munger は 1883 年に、そこに綿花の加工(綿繰機)場を設け、1884 年にはそれを会社化し、工場を建てています。
以来、いくつかの製造関連の企業がそのような進出をし、1913 年には Henry Ford も Model T FORD の組み立て工場まで持ってきました。
1916 年には黒人の(フリーメーソンみたいな?)結社とでも言うべき Black Knights of Pythias が結成され、やがて、この地区には黒人を対象とした医者、歯科医、さらには法律事務所までが出来てそれを収容する初の黒人が建てたビルに入居しています。

そのビルの最上階にはダンス・ルームがあり、さらに黒人向けの新聞社も入っていました。
1920 年代には、その周辺はブルース・クラブや映画館、小さな劇場といったエンターテインメント関連の施設が集まり始め、さらには Elm Street 自体が街頭でのチップ稼ぎの「場」ともなり、そこには数々のブルースマンも立った、と言われています。
Big Mama Thornton や Blind Lemon Jefferson、Sam "Lightnin'" Hopkins、そして今日のブルースの Dennis "Little Hat" Jones などのブルースマンたちの演奏したところであり、あまり詳しくはないので知ったかぶりはヤメときますが、ジャズのほーでもここに名を残したミュージシャンは多かったようです。そして、それにつれてレコード会社のスカウトマンも集まり、Dallas はひところ Blues & Jazz の「ホット・ポイント」でもありました。

しかしこの Deep Ellum も、都市計画の必要性から鉄道の駅が離れた場所に移動されてしまったため、1940 年代から徐々に「斜陽」を迎えて行きます。
さらに、交通事情の変化から路面電車までが 1956 年に廃止されるに伴い、この界隈の賑わいは明らかに翳り始める⋯
およそ 15 年後に都市計画が見直され、路面電車は復活していますが、その間にブルース・クラブをはじめとするかってのシーンは姿を消し、再開発後はブティックなども並び、市の新しい商業的中心として発展しているのかもしれませんが、かっての Deep Ellum とは「違う」場所になっていることでしょう。

⋯なんて Dallas のことをこんなにぐだぐだと語ってるのはご推察のとおり、Little Hat Jones はん、生没年はモチロン、出生地すら判らない、っちゅー極端な情報不足だからなのでございます。

そう。極端な情報不足「だった」んですねえ。2004 年の年末の時点では!
なんと⋯ちょっと(ちょっとじゃねえっ!言われるな)目を離してる間に、彼についての断片が「たっくさ〜ん」浮上してきてたんですわ。

まずはその出生ですが、Texas 州の Bowie 郡、Sulphur 川のほとりにあった農場の Felix Jones とその妻の間に1899 年10月 5 日、生まれた男の子が George Jones、後の Little Hat Jones だったようです。
最初は教会でピアノを弾くところから音楽に接近したようですが、母がギターを与えてくれたことでピアノからギターに変わったものと思われます。

その後の農場の様子などを記述した資料はなく、ほぼ二十年ほどの空白のあと、彼が Texas 州 San Antonio でストリート・ミュージシャンとして目撃されるようになりました。
どうやら Blind Lemon Jefferson との接触もあったようですが、音楽ビジネスの世界に顔を出したのは、むしろ Alger "Texas" Alexander の伴奏者としてのレコーディングだったようです。そのときに録音された 9 曲のうち 8 曲が Okeh からリリースされています。
さらに彼自身のナンバーも同じ 1929 年に録音されており、そのうちの何曲かはリリースもされているようですが、そこに起こったのが「いわゆる」世界恐慌でした。
そのためにレコード・ビジネスは縮小し、おそらくそれが原因と思われますが Little Hat Jones(あ、すでに彼の名前の由来となったボロボロの野球帽?が語源らしい Little Hat Blues から、George Jones ではなく Little Hat Jones と呼ばれ始めていた)は San Antonio を離れ Dallas から Arkansas 州に向かう途中にある Naples に移り、二度目の結婚で一緒になった女性と一緒に暮らしていたようです。

それが 1960 年代のブルースのリヴァイヴァルのブームによって「埋もれたブルースマンを探す」動きが出て、ついに 1964 年、モリス・クレイグとゆう探索者によって発見され、すぐに 8 曲をレコーディングしたそうですが、どうやらそれらの録音はいまだに未発表のままで、「埋もれていたブルースマンの復活」にはならなかったようです。

1981 年の 3 月 7 日、Texas 州 Linden の the Municipal Hospital で死亡しています。81 歳でした⋯

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