Money Taking Woman

Johnny Young


2005-01-02 SUN.


Johnny Young のちょっと心細いよなマンドリンのイントロで始まるこの Money Taking Woman( I Just Keep Loving Her の演奏者を Jimmy Rogers & Little Walter なんて平気で書いてる barrel house bh-04 での表記上は Money Talking Woman。しかし、P-Vine のライナー内に掲載された実物の 78rpmSP、ORA NELLE 712B のセンター・レーベルの画像では「ハッキリ」と MONEY TAKING WOMAN と識別することができます)は例の I Just Keep Loving Her と同様に Chicagoの Maxwell Street にあった独立レーヴェル ORA NELLE に吹き込まれた素晴らしくイキのいいアコースティック・ブルースの名曲(とワシが認定したのじゃあ)でございます。

I Just Keep Loving Her もそうでしたが、とても「たった二人」( Harp & Guitar あるいは Mandolin & Guitar )でやってるとは思えないダイナミズムにあふれてますよね。
ヘッドフォンでチェックすると、低音域でもなにやら鳴っておりますが、これはたぶん演奏者のフット・スタンプ、つまり床でリズムをとってるつま先の音でしょう。
こうやって ORA NELLE の音を聴いてみると、デルタ系のアコースティックとは明らかに異なるヴェクトルを持っているように思えませんか?
やはり都会の街頭の喧噪に打ち勝つ(?)ために、音密度を上げて、あまり隙間の無い楽曲の構成にしているのでは?と見るのは穿ちすぎかもしれませんが、時は第二次世界大戦の終結後間もない 1947 年、シカゴの街頭では、いろんな大道芸人やらミュージシャンが「わいわい」やってたとしたら、こんな「のべつまくなし」必ずなんかの音が鳴っている、ってえ曲の仕上がりがパワーを発揮していたかもしれません。
で、そのよーな演奏の積み重ねが、やがて来るシカゴのバンド・ブルースの下地となって行った(んだったりして)、と。

さて、この Johnny Young については江戸川スリムさまのサイトの Sweet Home Chicago のコンテンツで実に詳しく述べておられるページがございますので、ゼヒそちらをご参照くださいませ。
とてもワタクシが一朝一夕には凌駕できそうもない濃ゆい内容でございますゆえ、ハナからそちらを見ていただいたほうが間違いが無さそうでございます。
なお、この Money Taking Woman には他の収録曲と同様に Take 1 と Take 2 があり、ワタクシの好きなのは Take 1 のほーですが、Take 2 もなかなかいい出来ですよね。

1947年の Maxwell Street では、すでに Johnny Young と Johnny Williams、そこに Snooky Pryor や、時にはまだ若かった Little Walter、さらに Floyd Jones や Moody Jones なども加わって「人だかり」を作っていたもののようでございます。
そして、どうやらその直前に Johnny Williams は Little Walter と Johnny Young と言う顔ぶれで、ウェストサイド、West Maddison 2119 番地にあったクラブ、Purple Cat に出演するために AFM に加入していたらしく、それが後にブルース専門誌のインタビューに答える際に AFM の加盟組合員に対する締め付け云々の発言につながったようですね。

Bernard Isaac Abrams、その生年月日ですが、1919 年、7 月 3 日、Maxwell Street で生まれた、と。
ただし娘の Fern Abrams Packer によると Bernard Isaac Abrams の両親、Isadore Abrams と Annie Weinstein Abrams のふたりは少し離れた Newberry Street(地図検索をしてみましたが該当ナシ。文字検索で出てきたのでは Maxwell St.と 14th St. の間の Newberry St.となっておりましたから隣接した場所かも?)の角の家に住んでいた、と語っています。
その彼が 20代後半にさしかかった 1945 年には 831 から 833 番地にわたる彼の家族の住居が店舗として転用され、そこに Maxwell Radio, TV and Record Mart(資料によっては Maxwell Radio and Records としているものもあります)なる店を開いています(あ、参考までに=アメリカにおいて TV 放送が開始されたのは 1939 年です)。
その店舗の奥の一室ではカンタンな録音が出来るように機材が用意され、そこでは売り込み用に、とイッパツ録りしたレコードを作ってもらうミュージシャンもかなりいたようです。(後に彼の妻、Idelle はそのように売り込み用のレコードを作り、それをレコード会社に持ち込んで契約できたブルースマンが彼のところに礼を言いに来ていたが、彼はそのほとんどを「覚えていなかった」と証言しています。ある日、Little Walter が連れてきたひとりが、おかげで売り込みが出来た、ありがとう、と感謝したのですが、やはり Bernard はその人物も、それを録音したことも覚えていなかった、と)

そんななかで、自らもレコード・レーベルを作ってみよう、と思い立ったものなのか、その辺の動機についてはいまひとつよく判らないのですが、たぶん Bernard Abrams の主導で「こんだけ人を集めているんだから、レコードにしたらそこそこ売れるかもしれない」程度の思いつきで作られたのかもしれません。
最初の録音の対象として選ばれたのは Little Walter と Othum Brown のコンビで、これを Little Walter の当時のガール・フレンドの名前だった(異説では、それを Othum Brown の前のカノジョとするものもあります。一方、Abrams の家族の名前から、というのもありますが⋯)ORA NELLE というレーベル名で発売しました。
この ORA NELLE 711(当然 78rpm/SP でしょう。参考までに、33・1/3rpm の LP は 1948 年に、45 回転の EP は 1949 年のスタートです)は A 面が Othum Brown の ORA NELLE BLUES(これがあるから、ワタシとしちゃあ、 Abrams の家族説には疑問を持っております。いかに弱小とはいえ、レーベル・オーナーの家族を題材に「今夜は誰に抱かれてるんだろ?」なんて曲をやるでしょか?)、B 面にはこれまたこのレーベルの白眉、Little Walter の I Just Keep Loving Her が、まるでその Ora Nelle Blues に対するアンサー・ソングでもあるかのよに、でもオレ、あいつが好きだから、ってなカップリングになってる、なんて感じるのはワタシだけ?
ま、そこらはどっちにしても推測の域をでませんから、それを決定づける確実な証拠(実際に Abrams 家には Ora Nelle という家族がいた、っちゅう証拠書類、あるいはその「写し」とか)を「お持ち」でしたら教えてくださいませ。

それはともかく、この最初の一枚は「そこそこ」売れたようで、続いて Johnny Young と Johnny Williams(あ、どーでもいいようなことですが、当時の Bernard Abrams の評価と現在のブルース界での評価は「逆転」してるようで、二枚のレコードの各 A 面はともに B 面ほどの評価はされてないように見受けられます)のコンビで録音され、ORA NELLE 712A が Johnny Williams の Worried Man Blues、712B が Johnny Young の Money Taking Woman でした。
そしてこれ以降のリリースが絶えているところを見ると、あまり思わしいセールスを上げることが出来なかったのかもしれません。

そのようにして「レーベル・オーナーとして」の Bernard Abrams の存在はこの時点で終わっているようですが、その後もこの Maxwell Radio Record Company、あるいは Maxwell Radio, TV and Record Mart、それとも Maxwell Radio and Records(え〜いメンド臭え!)はブルースのレコード(今度は他のレーベルからリリースされたもの、ね)を売り続け、そこには Elmore James であるとか Aretha Franklin、さらに B.B. なども、自分のレコードが売れているかどうかをチェックしに来ていたそうですから、その意味でのミュージシャンたちとの交流を通してブルース・シーンには関わっていた、と言えるかもしれません。
Bernard Abrams には、妻 Idelle との間に Jerry という息子がおり(他にも三人の子供がいたようですが)、その Jerry の回想によれば、B.B. のレコードはそれほど売れ行きが良いほうではなく、レコードの並んでいる区画のなかではいつも後ろに追いやられていたそうですから、当時の B.B. はまだそれほどメジャーじゃなかったんでしょね。

1976 年には最初の場所を離れ、805 W.の Nate's Deli の隣に店舗を移しました。
やがて Bernard Abrams は第一線を退き、店も売り払ってしまうのですが、それでも、日曜ごとに Maxwell Street にでかけ、そこで物売りをしていたそうです。
もちろん、そんなことをしなくても充分に暮らしていけたのですが、やはり Maxwell Street が好きで、そのなかに身を置くのが好きだったのか、例の University of Illinois の拡張のために Maxwell Street が「消える」まで通い続けたのでした。
お孫さんにあたる Michael と Michelle Dubanowski によると、Bernard Abrams が Maxwell Street を語るときには目が輝いていたそうです。
その孫たちとともに And This Is Free をとても楽しんで見ていた Bernard Abrams。妻の Idelle によれば、「あのひとはほんとうに腕のいい修理人で、いつもドライヴァーとポケット・ナイフを肌身離さず、それさえあればなんだって直せたんだよ。でも(休暇先の Arizona 州 Scottsdale で)心臓の発作を起こして病院に運び込まれたときは、ドライヴァーもポケットナイフも身につけていなかったのさ。だから直せなかったんだねえ」・・・
1997 年12月14日死亡。78 才でした。

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