Open House At My House Little Johnny Taylor 2005-12-01 THU. | 前回の Part Time Love が昨年の 7 月28日ですから、これまたずいぶんと間が開いちゃいました。 さほど詳しい資料が無くて、彼のプロフィールってのがあまり良くは見えてこないのですが、それを補って余りある(?)情報量に溢れた熱唱ぶりで印象的なこの Open House At My House、ときたまリキみ過ぎじゃあ?って心配になるくらいなんですが、それでもファンのみなさまからの支持は多いようで、特にブルースばかりじゃなく、ソウルなんぞもエリアに収めておられる方にとっちゃ、なかなかに聴き応えがあるんじゃないでしょうか。 昨日の Otis Rush であんなことを書いた後で、この Little Johnny Taylor を採り上げたからって、彼がその対照的な「スキルばかりが発達した」スタンダップ系のシンガー、っちゅう意味ではなく、「佳き対比」としてご出座(?)ねがったのでございます。 このヴォーカルが確かにハンパじゃないスキルに溢れているのは事実ですが、それを駆使し尽くして、なんとか表現したい、というある種の「パッションのようなもの」は充分に感じ取ることができるのではないでしょうか。 もっとも、さらにそれを越えるスケールで、「想い」というものが背後に見え隠れする Otis のブルースってものが「人生とは」、あるいは「人間とは」という根源的なところにまで触れてくるのに対し、どうしても「音楽」というグラウンドで「完結してしまいがち」な限界も露呈している、とは言えるのかもしれませんが。 いわゆる、「いい」と「巧い」の「差」、と言ってしまうとミもフタもありませんが、ある意味、ウマいひとこそ、本当は重い十字架を背負っているのかもしれませんよ。 実際、この世には、もうウットリするくらい歌が「巧い」ひと、ってのが結構いるんですが、ただ、その「巧さ」には感動しても、そこで表現したかったものは?という「内容」が、そういったスキルを「乗り越えてまで溢れ出してくる」というレヴェルになり得ているものは、実は稀であるように思います。 もっとも、だからといって、そのよな一切のスキルを無視する方向(とキメつけちゃいけないんでしょが)に走り、ミニマル系や、はたまたコンセプチュアル・アートのようなコインシデンシャル・ミュージックならば良いのか?と言われれば、それはまた「表現」に偏重しすぎた「相」であり、きわめて限定された個人的な「了解域」しか持ち得ないように思われます。 ま、要は、そのへんの「普遍性」との兼ねあい、と言えるのかもしれませんが。 てなことはともかく、ワタクシも Little Johnny Taylor のようなこの手の高密度ヴォーカル(?)、別に嫌いではございません。 でも、どっちかってえと自分も唄いたい、っちゅーヤボーを胸にひそませておるため、ここまで完成した「シンガー」ってのはレンジ外になっちゃうんですよねー。 したがって聴くぶんには実によろしいのですが、さほどシンパシーは覚えない、ってのがしょーじきなところでございます。 それでも彼の Baby Get Hip To Yourself みたく「曲として面白い」とまた違った楽しみ方もあって、けっこう気に入っているのですが、この Open House〜では、なまじフツーのブルース進行なだけに、ヴォーカルの凄さだけが際立ってしまい、どうもごリッパすぎて(あ、他にギター・ソロが無く、全編「歌」ってのもあるな。 ま、途中ヴォーカルのバックでちょっとだけ、ギターがソロっぽいフレーズを弾いたりもするんですが、やはりヴォーカルはノン・ストップなのじゃ)ちょっと食傷気味になっちゃいますね。 一度聴いたら次はとうぶんいいや、ってな感じ? でも、やはりソウルなど、言わばヴォーカルの魅力をメインとして(あ、ソウルをそのようなもの、と定義しちゃうのはマチガイかもしれませんけどね。これはワタクシのアサハカな印象でございますので捨て置いてくださいませ)総力を結集した(?)音作りには、それなりの魅力もあるワケで、そこら、例の Little Milton の Waiting For なぞ聴いておると、その重点主義のパワーをひしひしと感じます。 この Little Johnny Taylor、次ははたしていつ登場することになるかは判りませんが、たぶんまた「忘れたころ」にはなりそうでございます。 |
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No.1319