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Billy Branch


2004-05-18 TUE.





さて、昨日は、1975年に the Green Bunny Club で行われた「自称ハープ世界一」の「生ける伝説」 Little Mac Simmons とのハーモニカ・バトルで、Little Mac をリングに沈めるまではいかなかったけど、圧倒的な「判定勝ち」をおさめた Billy Branch が、いよいよ Willie Dixon に認められ、明日、録音すっから Chess のスタジオに来なさい、とハナシがまとまったところまででございました。

その Chess のスタジオで録音された、彼にとっての初吹き込みですが、本人は
I still got a few of those 45's. It was on Yambo Records. "The Last Home Run."
とインタビューで語っているのですが、一部の資料で「 Barrelhouse Records 」である、としているものもあります。そんな年代まで Barrelhouse Records ってあったんだっけ?(彼自身の記憶では、その裏面は Big Walter Horton をフィーチュアした All Star Boogie だったのではないか?ってことです。ううむ、あくまでも野球ネタで通したのねん)

これ以降、いわば「見習い」みたいな存在で Willie Dixon のグループに関わり、ギグやツアーにも同行していましたが、ある時、本来の(?)ハーピストである Carey Bell が「ヤメたい」と言い出し、「あとはお前がやれ」と Billy Branch に託して去っていったらしいんですねえ。
その時から彼は正式なメンバーとしてモマれることになるのですが、それに関して Lafayette Leaks のことを懐想しています。

Lafayette Leake ― この人は正当に評価されていないけど、隠れた天才だよ。
実はとてもダイナミックな人間なんだ。いっつもハワイアン・プリントのシャツを着ててね、傍らにはツブれた帽子を置いて、ジっと座ってるんだ。
一切の感情を押し殺したように同じ表情でさ、まわりがフザけてても微笑むこともしないんだよ。
まるで偉い教授かなんかみたいにね。
ところが、彼は実際に「教授」だったんだよ。彼は理論もマスターしてて、ピアノを教えていたのさ。いや、それどころか、Carey Bell に聞いたんだけど、彼はハープについても Carey Bell にハープの理論を教えてくれたし、実際に吹いてみせた、と言うんだな。
だから、俺のことも放っておくワケはない。
「おい、Big Walter みたく 5度の音を半音下げてみろ」とか「それと 3度も半音下げろ」とね。
俺は「は?ナニそれ?」てなもんだよ。(ここで「半音下げる」ってのは、もしかすっと「ベンド」・・・あれ?「チョーク」っていうんだっけ?・・・のことかもしれません)
彼はまるで哲学者みたいだったなあ。みんなにポンと「議論のタネ」を投げ出して、みんながそれについてワイワイやってるのを、プラトンかソクラテスが弟子たちの議論を見守るように見てて、そんな時には、われわれの言ったことに笑ってたっけ。


個人的には Big Walter Horton とツルんでいた時期があったようですね。インタビューではそのことについて、また他のハーピスト、Carey Bell や、Jimmy Reed、さらにこれもまた不当に低く評価されている Buddy Scott などについても語っています。
しかし、そのインタビューで印象的なのは、Willie Dixon について語っている部分です。
黒人にとってのブルースとは?さらに、アメリカにとってブルースとは?そして我々(アフリカ系黒人)は何故「ここ」にいるのか?それらのことをよく考えるようになったのは、まさに Willie Dixon の薫陶があってのことだ、というのが良く理解できます。
そして、彼自身が学童たちにブルースを教える活動を始めた際に、その Willie Dixon から受け継いだ「我々は何者であるのか?ブルースとはなにか?ブルースになにが出来るのか?」を、その活動の基本に据えたのは当然だった、と言えるでしょう。
このインタビューは英文であるため、より正確なニュアンスを感じていただくためにも、辞書片手にでも、是非チャレンジしていただきたい、と思います。Willie Dixon が Billy Branch に託した、とても大事なことが沢山そこにはありますから。
URL は http://www.bluesmusicnow.com/branch80bc.html です。

その Willie Dixon の All-Stars に正式に加入( 1979年)する前にはまた他のブルースマン、Lefty Dizz に Junior Wells、James Cotton、Jimmy Walker、Sammy Lawhorn に Johnny Littlejohn などとの交流を重ねて行たらしいのですが、中でも Jimmy Walker とは、ピアノの Pete Crawford を加えた the Jimmy Walker Trio として Gilmore's に出演し、後になって Steve Patterson(別名 Twist Turner )を加え、さらにベースの Steve Milewski も加えてクラブで演奏し、人数で分けると 7・8ドルにしかならないギャラは、全員でなんか呑むとたちまち消えて無くなったけど、そこで演奏出来ただけでもうゴキゲンだった、と(どーやら「 pass-the-hat money 」と言ってますから、チャージじゃなく「投げ銭」方式のギャラだったみたい)。

1979年に Willie Dixon の All-Stars に Carey Bell の後釜として入ったものの、それなりの苦労もあったようで、まず、彼には自分のアンプってものが無く、そこであてがわれたのが Sears Silvertone(つまり Silvertone の製品を通販 No.1の Sears が扱った OEM )で、彼はそのアンプを形容するのに「Shittiest」とゆう最上級の( Shit→クソっ!Shitty→クソったれな?Shittiest→最上級?でも実際には辞書に無いよな気がすんだけど)賛辞を捧げておりますが、ギターの Buster Benton のギター・アンプはおよそ出力 300W なのに、そいつときたら 30W くらいで、それで負けないように吹きまくるもんだから口がボロボロになっちまったそうでございます。
でも、それよりツラかったのは、行く先々で、Carey Bell はどうした?どうして Carey Bell じゃないんだ?と言われることだったようです。
しかし、Willie Dixon はクラブのオーナーをいつも説得し、彼を使い続けてくれました。
彼のような未経験な、しかし将来性のある若いメンバーを育て上げることを使命としていたのでしょう。
さいわい Billy Branch は前述のように、伝説的存在と言ってもよいような蒼々たる顔ぶれと交流していたこと、さらには「あの」 Magnus Chord Organ からピアノまで弾きまくっていた、というキーボード経験が彼のハープのポテンシャルを高めていったのではないか?と、ヒソカに思ってるんですが・・・

それとは別に 1977年、Berlin Jazz Festival に Jim O'Neal が委任されてブルースの若手を送り出すことになり、13人のメンバー( James Kinds、Dead Eye Norris、Bombay Carter、Harmonica Hinds、Vernon Harrington ─ は~い、記憶力のいい方は覚えておいででしょか?先日の Eddy Clearwater、彼のラスト・ネームも、初吹き込みをした Atomic-H のオーナーも、 Carey Bell も、そして息子の Lurrie Bell も、みんな Harrington の一族なんですねえ。で、この 1952年 5月21日 Chicago 生まれ、左利きのギターとして Johnny B. Moore のバンドにいたこともある Vernon も、これまた Eddy Clearwater のいとこでございます)が選出されたのですが、その中から、自然に Freddie Dixon をベースに、そしてギターについては Jim O'Neal の薦めで Lurrie Bell、そしてドラマーには Clifton James の息子、Garland Whiteside(なんで父子で姓が違うの?なんて尋かないでちょーだい。そこまで調べてるヨユーは無いざんす)でスタートした、このユニットこそが The Sons of Blues の出発点だったようです(ただし、レコーディングの時にはドラムがすでに Jeff Ruffin に替わっております)。
つまり Billy Branch 以外はみな、ブルースマンの息子だったため、Sons of Blues の名になったんですね。

Junior Wells の義理の息子(ホラ、ここにも息子)、Lucius Barner の作った曲、Tear Down the Berlin Wall がベルリンに行けなかった Lucius の代わりに現地で演奏されました。
アメリカに帰ってきてからは小規模なギグをこなし始めたようですが、そのさなかに Lurrie Bell がバンドを去ってしまいます。海外のツアーのスケジュールを進めようとしていた時だったので、急遽 John Watkins ( 5月 8日付の日記) をギターに据え、また Vernon Harrington のとこでちょこっと出てきた Johnny B. Moore も一時いっしょにやってたこともあったようです。
John Watkins もまたやがてバンドを去り( because he was a leader himself.─ by Billy )メンバーはいくつかの変遷を経て行くことになるのですが、
http://www.joes-corner.de/chicago2002_billybranchartis.html では 2002年 6月のそのメンバーとして Billy Branch のヴォーカルとハープ、Sumito Ariyoshi(有吉 須美人)のピアノ、Nick Charles のベース、Calvin Kadakie Tucker のパーカッション、Mose Rutues Jr.のドラムとなっており、そのゲストとして John Primer( Voc.& Guit.)、Lenny Lynn( Voc.)、Deroles( Voc.)、Ronnie Baker Brooks( Guit.)などと並んで、いま話題の Carlos Johnson も加わっています。

Alligator の The New Blueblood では J. W. Wilkins の Chi-Town Hustlers と Sons of Blues の合体(?)で The Only Thing That Saved Me が収録されておりますが、ここでのヴォーカルは J. W. Wilkins で Billy Branch ではありません。
また、そこでのギターは Carl Weathersby(詳しくは、えどすりちゃまの http://www.kiwi-us.com/~slim/cweathersby.html でどうぞ)です。

さて、ずいぶんほったらかしにしてしまいましたが、Kenny Neal のギターだけの伴奏で吹き込んだ、この I Just Keep Loving Her の収録されたこのアルバム Double Take は、オリジナルがどうやらフランスの Isabel 649801 Easy Meeting らしいんですね。
おフランスは Montpelier の Studio Lakanal で録音され、2003年の 4月にリリースされたもの( Alligator 盤、ALCD 4894 は 2004年の 1月リリース)でした。
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