Memphis, Tennessee

Chuck Berry


2004-07-02 FRI.

1959年、Chess 1729 として発売されたシングルの B サイド( A サイドは Back in the USA )だったこの曲ですが、この独特のリズムとパースペクティヴを持った個性は、ワタクシも含め、ケッコー多くのファンを持っているんじゃないでしょか?
一見、シンプルな 2 ビートにも聞えますが、実は「控えめ、かつ軽やかな」ボ・ディドリー的ビートでもあるんですよね。ここらの「なにげ」なとこもなかなかタダモンじゃございません。

そして一度聴いたら耳についちゃう、メロディのサブ・ラインだけで流れてくような、ワザとヤマを避けてるような、なんともいえないこのヴォーカル、ゼッタイ、モンキーズのLast Train to Clarksville (だっけ?)とかってのにパクられてるよねー。
ま、Chuck Berry クン、たぶん掛け値ナシの「パクられ王」まちがいないってとこかな?
お馴染み、ビーチ・ボーイズの Surfin' USA の元になった 1958年の Sweet Little Sixteen や、まんま持ってかれたのもいっぱいだし、逆に言うと、そんだけスゴい「ソース」だった、っちゅうことね。

とは申しましても、それはあくまでも「ろけんろー」の世界でのおハナシでございまして、世の「ブルース・ファンダメンタリスト(?)」の皆様からは、いささか軽んじられておる面も否めませ〜ん。
そりゃ、ワタシだって、「これまで、ブルースって、一度も聴いたことないんですが、これぞブルースっていうオススメありますか?」なんて尋かれて、さすがに Chuck Berry から聴いてみなさい、てなことは言いませんけどね。
ま、そのイミでは、多少オフ・センターな存在ってことになるんでしょうが、彼自身はブルースどっぷり、っちゅう意識でおったのかもしれません。
昨年 7 月19日付の Worried Life Blues でも判るように、彼の方ではブルースというものに非常な親近感を持っているのではないか?と推察されます。

ただ、この曲でも、やっぱりギター・ソロ(?)ってのが、ホントにもう「ソロ」なんて言えないよなショボさで、そこらヘンが「いわゆる」ブルースの「鑑賞に耐える(?)ギター」って概念からすっと、たしかに欲求不満にはなるかもね。
ま、それでも、この曲のプレゼンスはそれを超えてあまりある・・・と思う(ちと弱腰)。

前回の Worried Life Blues のとこでも書いたんですが、そっちは今にして思うと、ちょとカンタン過ぎたなあ、っちゅー反省もあり、も少し詳しく・・・

Chuck Berry こと Charles Edward Anderson Berry は、Antioch Baptist Church の司祭であった父 Henry と、学校の先生であった母 Martha の最終的には 6 人生まれることになる子供たちの 3 番目として、1926年10月18日、Missouri 州 St. Louis の Goode Avenue(現在は名前が変わり、Annie Malone Drive となっているようですが) 2520 番地で生まれています。ちょうどこの辺りは St. Louis のダウンタウンの北西に隣接した、およそ 9×5ブロックのエリア(西は Taylor Avenue、北を St. Louis Avenue、東は Sarah Street、南は Martin Luther King Drive に至る一帯)で、The Ville と呼ばれ、この地区の中にあっては、当然、貧富の差はあっても、相互の結束が存在し、生活面や、子供の教育、しつけなどに関しても、一種の共同体的な連携を持った黒人のコミュニティとして、日々の暮しを支えてくれていた、と言いますから、当時の都市の中にあっては例外的な場所だったようです。
そのような(当時のアメリカの黒人としては)恵まれた環境で育った彼は Simmons Grade School から Sumner High School に進みますが、そこはミシシッピー以西では「初の」黒人のための高等学校であり、その卒業生の中には、後の Tina Turner も含まれるとか。

その高校在学中に、彼は芸能活動(?)の第一歩を記したらしく、1941年の All Men's Review(ってのがなんなのかは尋かないでちょうだい。ワシにも判らん!)ってので Jay McShann の Confessin' the Blues を歌って喝采を浴びていたらしいのです。
しかし、当時の彼は、音楽以外にもやりたいことがあって、それは、いとこの Harry Davis の影響で、父の(聖職者に、という)期待は裏切るけど、「写真」への熱中でした。
しかし、彼のそのような夢も、1944年、仲間と Kansas City までドライヴ、と決めこんだそのクルマが強奪されたものであったため、彼らは途中、警察に捕まり、Missouri 州 Jefferson 近くの Algoa にある少年鑑別所で 10年を送ることとなって消えてしまいます。このため、せっかくの Sumner High School も卒業することは出来ませんでした。
資料では、そのクルマを彼らが強奪したものかどうか、には言及されておらず、単に放置されていたクルマを勝手に乗りまわしていたものか、そのヘンがちと不明です。

その Algoa 時代にはゴスペル・グループに所属し、また、どうやら短期間ではあったらしいのですが、ボクサーも経験しているようです。
1947 年、彼の 21 才の誕生日に 10 年という刑期をそれでも大幅に短縮して、ようやく Algoa から開放されると、翌年には Themetta Suggs という女性と結婚し、Fisher Body という(たぶん自動車の)組みたて工場で働き始めますが、同時に the Poro School というところで「ヘア・ドレッサー」としての職業訓練を受け、さらにフリーの写真家としての仕事と、父の仕事の補佐、その上に、ふたたびミュージシャンとしての活動までも始めているようで、ある意味、失われた三年を取り戻そう、と必死だったのかもしれません。

1952 年のニュー・イヤー・イヴに、彼はピアニストの Johnnie Johnson が率いるスモール・コンボに誘われて参加します(ドラムが Ebby Hardy だった)。ここに彼が加わったことにより、バンドの音はポピュラリティを獲得し始めたらしく、このバンドの人気は次第に Ike Turner や Albert King に肩を並べるほどになりました。
そしてついにシカゴに上り、CHESS の Leonard Chess に辿りつき、Willie Dixon による検分を受けることとなったのですが、そこで Ida Red(仮題)という曲を Willie Dixon が気にいって、バンドとして来るように、と指示します。
こうして Johnnie Johnson のピアノ、Ebby Hardy のドラムに Willie Dixon 自らがベースで参加して録音された曲が、あの Maybellene となったのでした。

Willie Dixon はさっそく人気 D.J.の Alan Freed*に依頼してヘヴィー・ローテーションを組んでもらい、この曲はたちまちミリオン・セラーとなって行きます。

*Alan Freed ─ 白人。本名 Albert James Freed、1921,12,15-1965,1,20。生まれたのは Pennsylvania 州 Johnstown 近郊らしいのですが 12才の時に一家は Ohio 州 Salem に移っています。
高校では Sultans of Swing(この名前は少し前に、別な意味で有名になっていますね)というバンドを結成し、トロンボーンを吹いていました。
1942年には Pennsylvania 州 New Castle の WKST で放送の仕事につき、続いて Ohio 州 Youngstown の WKBN ではスポーツ・キャスターとなり、以後、1945年には WAKR(同州 Akron )で次第に音楽番組の采配で注目を浴びるようになります。
1951年には彼の呼びかけたコンサートにキャパの二倍の聴衆がおしかけてゲートを破壊する騒ぎも起きており、これを史上初の「ロック・コンサートだ!」なんていうひともおりますが、はて?
この後も圧倒的なリスナーの支持によって、彼の音楽業界に対する影響力は増大していったのですが、1958年にまたしても Boston Arena での乱闘事件があって、彼の評価が下がり始めたときに、追い討ちをかけるように表面化したのが 1959年11月の、有名な「ペイオーラ・スキャンダルでした。
これ以降、彼は相変わらず M.C.の仕事や、D.J.としての仕事を続けてはいるのですが、1962年に金銭トラブルで失脚し、California 州 Palm Springs に隠棲するようになったらしいのですが、もはや酒のために廃人同様だった、とも言います。
彼の死因は肝硬変に食道周辺の静脈瘤などからの大量の出血だったそうです。


こうして、Chuck Berry という大スターが登場したワケです。
ま、その後もまた紆余曲折があるのではございますが、そっから先は次にとっとこ。

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