Born In Missouri

Magic Slim


2004-04-04 SUN.
え~、みなさま、前にさんざ騒いでおりました「ニセ Magic Sam 」の Cummins Prison Farm の一件、覚えておいででしょうか?
あの時、それって Magic Slim じゃないの?っつー貴重なご助言をいただきながら、Cummins Prison Farm っつータイトルにこだわったがタメに、う~ん、無いみたいだなー。と、それっきり流してしまったのでございますが、本日、弘前きってのコレクターにして、ブルース歴じゃあワタクシのセンパイでもあらせられる BLUES'N のマスター、かつ弘前のエディ・テイラーの異名をとるダディ正井が「ついに」突き止めてくださいました!

と、もうカンのいい方はお判りでしょう。そ、アサハカなワタクシがそのタイトルだけで検索して「無い」!と思ったのも当たり前、ちゃうタイトルでやってたのねん。
でもよっく聴けば出だしの歌詞で、ちゃんと言ってるじゃあないの
Born in Missouri・・・って。やれやれ、とんだ「お間抜け」だったわん。

Magic Slim についちゃあ12月27日の日記で採り上げておりますので、そちらもどうぞ。

さて、昨日は、ついに途中で投げ出してしまった「小便小僧」クレイトン(?)でございますが、考えてみたら、ピック・アップしたナンバー Telephone Is Ringing のカケラも姿を見せないうちに Give up しちまってたのね。
それじゃ、いくらなんでもマズいだろ、っつーことで、も少しガンバってみましょ。

After Hours は、もうこの日記でまともに 3 回、そして他の「ついで」記述で登場してるのもイッパイあるんで、いまさらクドクドと申し上げるのは控えさしていただきましょ。
あ、ついでだけど、ワタシの中でのベストは Eddie Taylor の Ready for Eddie に収録されたヤツね。

オリジナルの Erskine Hawkins では Avery Parrish のピアノを前面に押し出して、ステージも終わり、客が帰った後のクラブのアンニュイな夜明け前のひととき、ってなイメージが演出されてましたが、それからすっと Pee Wee のはやや余韻に欠けるかな?っつー気もいたしますね。ま、そこら「すきずき」ですから別にいいんですが。

彼のギターは 1950 年代を通して次第にアグレッシヴになっていった、とする資料もありますが、どーなんでしょ?
たしかに T-Bone を頂点とする、ジャズのエリアまでをホーム・グラウンドとするブルース・ギターのハイアラーキーからすっと「アグレッシヴ」という表現も当たっているのかもしれませんが、ワタシあたり、ちとそれとは違う感触を持っております。
Johnny Guitar Watson、Albert Collins、そして Clarence Gatemouth Brown のテキサス系、さらに Freddie Roulette みたいなアナーキイ系(?)なんかのほがよっぽど「アグレッシヴ」だと思うんですがねえ。
そこら価値観の相違っつーことで流しておいて、と。

ケッキョク、彼がマジにギターを弾くようになったのが 1944 年からだ、と言われていますから、それからすると、その後 10 年ってのは「どんどん変化してく」のは当然でしょ。
さらに最初の 4 年ほどはたしかインストをメインにしてたワケですから、ヴォーカルもとるようになるとギターも変りますからね(なんてエラそーに言ってますが、ここじゃあ自分のことはカンゼンに棚に上げて、のハナシでございます)。
昨日、ヒットは出たものの、その後、かえって(?)低迷期を迎えた、みたいなとこまで書きましたが、ま、考えようによっちゃ、そんな時期でも彼のスキルは成長を続けていたワケで。
そして 1953年、ハリウッドの John Dolphin(クルマのセールスマンだった彼は音楽産業にも乗り出して、他業種での手法を持ち込むことで、独立レーベルとしてはユニークな成功をおさめかけていました。しかし、後に売上に対するロイヤリティをバックせず、初回の買取制にしていたため、その妥当性をめぐってモメた作曲者によって「殺害」されてしまいます)が設立したレーベル、Dolphin's に吹き込んでいます。
この時期の Pee Wee はモロ T-Bone スタイルや Slim & Slam( Slim Gaillard & Slam Stewart。2003年11月 6 日付の Screamin' Jay Hawkins の回、1951 年の Tiny Grimes のところでも登場いたします。)の音にベクトルを向けていたようですが、それでも自作の曲をメインにしてたみたいですね。

次いで Pee Wee は Imperial Records に録音していますが、ここでもさしたる(商業的)成功は得られませんでした。
ただ、このあたりから、彼の曲作りに New Orleans の影響が見られる、としている資料もありますが、ワタクシはちとそのへん、実感できませんでした。
Imperial のスタジオ・ミュージシャンとしての Dave Bartholomew の存在とかも考慮すべきなんでしょね。
そして 1953 年、Specialty から出現(実際には 1951 年に Imperial にも録音はしてたのですが)した Guitar Slim の大ヒットも影響してるのかもしれません。

あ、それと、はたしてどの程度大きな要因だったかは不明ながら、この時期に彼は Leo Fender から真っ赤な Stratocaster を提供されてるんですねえ。

やがて時代は Rock'n'Roll の隆盛を迎え、それによってエレクトリック・ギターを弾いて歌うタイプのブルースマンにとってはいささか居所が狭くなったかもしれません。それでも T-Bone とパッケージ・ショウを組んでツアーを行ったりしてたようです。
西海岸での状況から、ケッキョク彼は Detroit へと向かい、VeeJay と契約を結びます。こうして Pee Wee は 1956 年と 1957 年、12 曲をそこに吹き込みます。
そこで残された録音のひとつが昨日の Telephone Is Ringing だった、っつうワケ。
あたかも電話のベルが鳴る如く繰り出されるトレモロ⋯っくらいしかゆう気になれんけどね。
なんたって彼のブルースにカンドーしたこと一度もない身としちゃ。

やがて 1960 年には California に戻りますが、そこでは音楽だけでは食べてゆけず、ブルースマンにはお馴染み Day Job を持ち(そ、ブルースで喰っていける、なんて、そっちが滅多に無いことなのよ)、それでも小さなレーベルに吹き込みは続けていました。さらに Modern 系列にも吹き込んだらしいのですが、たしかそれはまだリリースされてないんじゃなかったっけ。
そして 1970 年、Monterey Jazz Festival の Johnny Otis Show に招かれて演奏した The Things That I Used To Do は、そのライヴ・レコーディングのアルバムにも収録されました。

1970 年代にはその余韻(?)でいくつかのレコーディング・セッションを行っています。
またライヴでは Big Joe Turner や Big Mama Thornton とも組んでいたようですが、その Big Joe との仕事は Norman Granz の Pablo レーベルに残っています。
彼の最後のセッションは 1983 年のもので、彼の死の 2 年前。
1985 年 6 月の Chicago Blues Festival で演奏した何週間か後、還らぬひととなりました。

・・・と、よーやく「気をとりなおして」なんとか Pee Wee Crayton を終ることができました。
やはり、向き不向き、ってのがあるんでしょね。ま、タマにゃ嫌いな音にクビ突っ込むのもいいかも。ベンキョーにはなります(?)。
permalink No.710

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